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白華の涙  作者:
2/3

中編

 瞼のむこうが明るくて、布団をぎゅっとかかえこむ。

 そしてここは家ではないと気づいて、はっと起きあがった。朝の光が寝台まで射し込んでいる。

 天蓋の布を開けたわたしは、目の前に広がる朝の水辺に息をのんでしまった。

 水辺は、水辺ではなかった。

 あの光の玉に照らされた水面から一面に、白い花が顔を出して咲き誇っている。水面がすべて花畑だ。


 ひなげしにも似た白い花は、すっと茎をのばして頭をもたげる。やわらかそうな花びらが、森の風にふわりふわりとなでられている。さざ波がおこるみたいにゆれて、朝露と水の流れが朝の光に照らされてきらきらと輝いた。

 寝台で身を起こしたそのままの格好で、その光景に目を奪われているわたしを、不思議な声色がくすりと笑う。


「目が覚めたかえ」


 白い布の向こうで瞳が細められているのがわかった。

 わたしはぼさぼさの髪も、着物のくずれを直すのも忘れて、枕元に座して花に目を細めた男を見あげた。


「昨日は花なんてなにもなかったのに」


 驚きに染まったわたしの声に、男は咽喉の奥で笑った。それにまた目が丸くなる。


「あれは好きな場所で咲く、そういうものだ。この森ではこの水辺。朝のいっときだけ咲いて、また次の朝まで眠りにつく。――ほら、ごらん」


 白い指が水辺をしめす。

 目を向けると、鮮やかな白をたたえていた花たちがだんだんと首をかしげ、水面に花弁をつけてく。そうして、ぱしゃん、と一斉に音を立てて水のなかに消えてしまった。


 ぱしゃん、ぱしゃん、ぱしゃん。


 水しぶきと音の余韻だけを残して、ただの一本さえもなく、花が姿を消してしまった。

 まるで花が意志を持って動いているみたいで。

 身を乗りだして泉をのぞく。わんわんと広がる波紋の先に眠る花の姿はなく、小石と水草のならぶ底がある。


「そうしていると、魅入られてしまうぞ。ああほら、目がこぼれてしまいそうだ。……そうだそうだ、そうして瞼を戻しておやり。目がなくなっては、おまえは村へ帰れなかろう」


 とっさに目をおさえたわたしに、咽喉の奥で笑いをころがし歌うように男は言う。


「ひと晩経てば腹もすこう。朝餉がある。水はそこにいくらでもあるから好きにおし。支度がすんだらあちらにおいで」


 音もなく立ち上がって、ほんのわずかに舟をゆらした布面の男は舟からおりて見えなくなった。


 手桶にくんで顔を洗うと、冷たい澄んだ水が気持ちよい。手ぬぐいで顔を拭いてから、その手ぬぐいを水にひたす。ぎゅっぎゅっと固くしぼって体を拭いて、おばば様が用意してくれた着物へと着替えた。

 そのまま寝てしまったが、昨日は森を歩いて足も手も着物も、自然の汚れがついていた。布団を汚してしまっただろうか。心配になってめくると、そうでもなくてほっとする。

 荷物を背負って、落ちないようにゆっくりと舟からおりる。さらさらと流れる水は、花のことなど忘れたみたいに、昨日とおなじ顔をしていた。


「森を歩くのは朝からがよい。おまえは小さい人の子だからな、足も遅いとなおのこと。食べたらおばばのもとへお帰り」


 盆におむすびがふたつのっている。湯気の立つお茶もそえられ、ぐうと小さくお腹が鳴った。

 男はわたしの様子を気にした様子もなく、天蓋の下にもどると香をたき始める。それを見てからわたしはおむすびに手をのばした。


「おばばにこれをお渡し。渡せばわかる。森でなくすでないぞ」


 木の根の洞窟を出ると、紅色の包みを渡される。背負った荷をくずしてそれを入れ直すと、布面の男はそれが正しいとばかりに二度うなずいた。


「鈴は――持ったな。よしよし。来たときと同じ道をお戻り。水辺の先で霧が出るが、霧が晴れればシダの岩肌。あとは道をたどれば、おまえの村が見えるだろう」


 深宵の森をとおったのは昨日のことなのに、ずいぶん時間が経ったような気がする。この水辺の明るさで忘れていたけれど、森は暗くて妖の気配がたくさんしていた。

 思い出して身を固くするわたしをよそに、男はすぐそこの水面に行くとかがんでなにかを手に取った。

 ぽたりと雫をこぼした白い花。あの、朝の光を受けて咲き誇っていた白い花。


「今朝、一輪つんでおいた。これも持っておいき。そうして、その花が枯れるころ、またおいで」


 わたしはうなずいた。




***




 水辺の小路を、大きな木を抜かしながら駆けて、霧に包まれたら薄い方向を目指して駆けた。すると風が吹いたみたいに霧が晴れる。顔をあげると、すぐ横にシダの岩肌がそびえたつ。――深宵の森だ。

 布面の男がいた水辺もその一部といえるはずだが、あたえられる印象がまったく違う。

 深宵とは、村からシダの岩肌までの暗い森からつけられたのだろう。泉をとおって水辺へいけるのは限れた者だとしたら、その名にもうなずける。

 わたしは花を持ち直すと、今度は暗い森を駆けた。


 白い花は、くるみの実くらいの大きさで、花びらをかきわけると卵色がのぞく。しっとりとした花びらは、わたしの歩みにあわせてふわふわと踊った。青みの強い緑色の茎はすっと硬く伸びていて、けれどもそれが折れてしまわないよう、わたしは慎重に抱えているのである。

 昨日とは打って変わって、森を抜けるのは早かった。

 陽がのぼり切るまえに村の納屋が見えた。ほっと胸をなでおろして、わたしは止まらずにおばば様のもとを目指す。


「おばば様!」


 村のなかで一番森に近いのはわたしの家だ。薬師であり秘術師であるおばば様の家で、やっかいごとがあればみんながたずねてくる。

 玄関先に立っているおばば様に、わたしはいっそう足を速めて駆けた。


「……行ってこれたようだね。上等だ。なかへお入り」


 わたしの抱えた白い花にちらりと視線を向けたおばば様は、くしゃりとわたしの髪をなで、家のなかへとうながした。こげ茶色の杖をこつりと鳴らして奥へ向かう背中を追って、わたしは安堵の息を吐くのだった。

 持たされた包みを渡すと、しわしわの手が結び目をほどいてあらわにする。はらりと布をめくると、樅木色の香が顔を出した。

 おばば様はさっそくそれを香炉にすえて火をつけた。のぼった煙が文字を描いて手紙となる。その最後の煙が天井に溶け込むまで、おばば様は静かに不思議な文字を見あげていた。


「サキ、よくやってくれたね。あの男が人を気に入るのはめずらしい」


 きょとんと目を丸める。嫌悪されてはいなかったが、気に入られた様子もなかったはず。おばば様はそれに意地悪く笑った。


「花をそこにいけておきな。これから、たまに行ってもらうことになるから覚えていなさい」


 窓辺におかれた花器をしめしてそう言うと、おばば様はこの話はしまいとした。

 もっとたくさん聞きたいことがあったのに。唇をとがらせてもおばば様はきいてくれない。昼餉になったら戻ってこいと外へと送り出すのに渋々としたがった。


 紡ぐ村は機織りの村で、村の女たちはみんな小さなころから機をおぼえていく。

 おばば様は不思議な力を持っていて、そのために秘術と呼ばれるまじないや、野草から薬を煎じることをする。お医者様や薬師とおなじ役割で、誰もができることではない。

 わたしはおばば様の血を濃くついでいるらしく、機織りのかわりに秘術と調合を教え込まれている。

 機の織り手、折り機の職人、綿花を育てる人、蚕を育てる人、糸を染める紺屋。

 そんな村人が大半をしめるこの村は、深宵の森のこともあってかほかの村からは異質に見えているそうだ。

 ぱたんぱたんと機の音がする。意識しなければ気づかないほど生活になじんでいる音を傍らに、わたしは薬草をすりつぶし、天秤にのせて重さをそろえる。


 毎朝起きると窓辺の花を確認しているが、ほっそりとした見た目に反して花弁の白さがくすむこともなければ、枯れる兆しも見えない。

 またあの不思議な水辺に行くのかと、気にするわたしにおばば様は知らん顔。布面の男のことをたずねても、本人がそのうち話すとしか言ってくれず、早く花が枯れてほしいようなそうでないような複雑な気持ちになる。

 おばば様に叱られながら秘術の祝詞の練習と、薬の調合の手伝いをして、ひと月をすぎたころ。

 朝一番に視線を向けた花は、くたりと頭を下にかたむけた。目を丸めるわたしに、白い花ははらりと花弁をちらしてしまった。




***




 香の入った藍色の包み、着替えと手ぬぐい、李と一緒におむすびがひとつ。

 まとめた荷を背負ってから、引出しにしまっておいた鈴を腰にくくった。行ってきますと出かけたわたしをおばば様が見送る。

 二度目の深宵の森を抜けるのは早かった。鈴をしっかりと確かめて駆けると、シダの岩肌。目にとまったシダの葉を選んで、泉をとおれば、あの不思議な水辺へと出る。


「来たな」


 いっとう大きな木までくると、根の洞窟の前にあの男がいた。

 陽がのぼり切るまえに着いたわたしをねぎらい、香の手紙を受け取ると、好きにおしと笑った。

 わたしは洞窟を出て、水辺にたたずむ。帰るのは明日だ。今日は早く着いた分時間がある。おばば様はそれを見越しておむすびまで持たせたのだろうか。

 洞窟の前に荷物を置いて、わたしはあの男の統べる水辺を歩くことにした。


 底が見える流れには魚の影。よくよく目を凝らせば、シダの葉にたかる虫や木で歌う小鳥の姿もある。

 森を駆け抜けて汗をかいたから、涼やかな水が気持ちよさそうだ。革の靴を脱いで足を突っ込むと、思ったよりもずっと冷たい。ぶるりと背中が震えた。けれども、足首から足の指の隙間をとおっていくその冷たさが心地よい。

 着物の裾を膝までたくしあげ、ずれないように結んだ。ばしゃばしゃと音を立てて、ふくらはぎまでつかってみると、岩の影にいた魚たちが恐る恐るこちらをうかがう。魚影が近づいては逃げていくのがおもしろくて、それを追いかけるわたしに合わせて飛沫が飛んだ。


 苔むした岩に裸足の跡をつけ、また水を蹴って着物の裾を濡らす。大きなシダの葉を選んで舟にすると、流れに沿ってゆらりゆらりとすすんでいった。どこまで流れていけるかと追うわたしの足を、岩陰がさえぎる。そう、文字通り、さえぎった。

 ぱしっと足首をつかまれてしまった。

 はっと身を固くしたわたしは、瞬時にそれが人でないものだと察する。そうだ、ここは、妖の森。油断をしてしまったのだと、背を冷たい汗が伝った。


「これ。手をお放し」


 不思議な声に、足首のそれはするりと解ける。

 岸を振り返ると、布面の男が水面を見つめていた。ことりと首をかしげ、少しの間を置くとうなずく。そしてようやくわたしをとらえた。


「水のなかには耳が遠いものもおってな。なに、小物ばかりだからおまえでも蹴散らせよう。――さあ、陽がのぼり切ったぞ。遊びはしまいで昼餉におし」


 その声に安心して、わたしは急いで岸へあがった。波紋を広げる水面を見ても、もうなんの影も見えなかった。

 ぎゅっと唇をかんだわたしに男は笑う。


「悪戯好きが多いだけだ。鈴さえあれば、ひどいことはされぬよ。あちらのほうがおまえに怯えるのも、そう遠くなかろう」


 おばばの孫じゃ。こわいこわいおばばの孫じゃ。慣れればおまえの庭になろう。

 歌うようなその声が不思議な抑揚を持って響いた。


 おむすびを頬張って李まですっかり食べてしまうと、そのまま男の様子を見ることにした。

 さっき水辺で足をつかまれたからではない。たんに、おばば様に渡す荷をどうやって作っているのか知りたかったのだ。

 手紙にする香を練っているのを座布団に埋もれながら眺めた。男は嫌がるでもなく、わたしのしたいままにさせる。

 深い緑色の香を三角に固めると、今度は薬の調合。

 わたしの見たことがない薬草や、生きものたちを次々に薬へと変えていく。男が手を止めるまで、うとうとしながら眺めていたらあっという間に陽が落ちた。


 夕餉にすると葛餅を作り始めた男に、あわてて眠気を飛ばして手伝いを買って出る。楕円の餅ができあがって、それをふたりで食べた。

 このまえは男の食事など見たことがなかったけれど、食べないのかと尋ねたら、唇に笑みをのせて葛餅の量を増やしてくれたのだ。

 満腹になったわたしを、男は水辺の舟へとつれていく。

 きらきらと光の玉が夜空をつくるのに、瞼がどんどん重たくなった。


「おばば様は、ここに来たことがあるの?」


 寝台にもぐったわたしの言葉に、持ってきた香炉で煙をくゆらせる男は手を止めないまま答えた。


「あれはすごいぞ。ここを我がもの顔で駆け回っておった。おまえとおなじように小さな人の子かと思えば、ほんに勝気のはねっかえりで」

「わたしとおなじくらい」

「そうだそうだ。あの樅木の青々とした瞳を輝かせ、やわらかな髪をなびかせ、あれはなんだこれはなんだと、うるさいうるさい」


 思いをはせるように、見えない目を細めて言葉を続ける。白い面にはばまれているのに、その表情がなんとなくわたしにはわかった。


「あの髪はやわらかくて気持ちがよい手触りだった。そうしてきれいなくるみ色だと、おまえもそうは思わぬか」


 きょとん、とわたしは目を丸める。


「おばば様の髪は、くるみ色なの?」

「おや、毎日会うのに色も覚えておらぬのか」


 それにわたしはおばば様を思い浮かべる。もう足が悪くなって、杖でゆっくりゆっくり歩くおばば様。

 しわしわだけど、樅木の瞳は強くてまっすぐ。ひっつめられている髪は、わたしのなかではくるみ色ではなかった。からかいの色を含んだ男の顔をおずおずと見あげる。


「で、でも、毎日真っ白だもの」

「白……」


 面の向こうで、男が動きを止めた。

 わずかな沈黙がおりたのに、わたしははっとして口をおさえる。けれどももう、言葉は消えない。いけないことを言ってしまった。


「そうか。そう、か。もう、それほど時はすぎてしまったか」


 視線を煙のようにさまよわせ、声をおとしたその様子にわたしはなにも言うことができない。

 目の前のおとこを悲しませてしまったことが、いっそうわたしを落ち込ませた。


「ごめんなさい」


 小さく謝って、わたしは顔をうつむかせる。

 すると、あのつめたい手がそっとのびて瞼を隠した。




***




「早う起きぬと、花が眠ってしまうぞ」


 さらさらと間近を流れる水の音、差し込むやわらかな朝の光。

 そこに不思議な声色が鮮やかな色をつけたのに、わたしははっとして目をあけた。白い面の男が枕元に座していた。


「……おはよう、ございます」


 目をこするわたしにくすりと笑みをこぼすと、すっと水辺を指さす。


「もう間もなくだ。――ごらん」


 その声に合わせたように、花たちが一斉に水へと消えていく。ぱしゃん、ぱしゃん、ぱしゃん。涼やかな音が水飛沫とともにあがって、わんわんと波紋を広げていく。

 この不思議な光景を、すんでのところで見逃してしまうところだった。わたしが見たがっていると察して起こしてくれたのだと、思い至ってまじまじと男を見つめる。

 面の向こうで笑った相手は、寝起きでくしゃくしゃなわたしの髪を丁寧になでてから、朝餉にするかと穏やかに言った。


 香の手紙と、薬の包み、そして白い花を一輪。

 それをわたしに手渡すと、男は形のよい唇を開く。


「――サキ」


 はっとして、わたしは荷を結ぶ手を止める。名前。不思議な声色が紡いだのは、わたしの名だ。


「サキ。森で助けが必要なときには、シュンランと名を呼べ。森のなかなら聞こえるだろう」


 シュンラン、とわたしの唇が音もなくくりかえす。

 それに男――シュンランは布面の向こうで瞳を細めた。


「その花が枯れるころ、またおいで」


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