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白華の涙  作者:
1/3

前編

 祝詞(のりと)を頭で唱えながら、わたしは足早に深宵(ふかよい)の森をすすむ。

 暗くて視界の悪い、影の森。苔で足をすべらせても、影のなかに影が見えても、わたしはぎゅっと唇をかんで足を動かす。


 深宵の森には、(あやかし)がすむ。わたしが生まれるずっとずっとまえから、村の裏に広がる森を誰もがそう言う。

 そこにはよっぽどのことがないかぎり行かないよう、おばば様から言いつけられていて、村のこどもも大人もみんな近づくことはない。


 ――妖がいるから、近づいてはならない。あやつらは人を惑わし、食らう。あまい言葉にのせられて、大事なものを失うことを忘れてはならぬ。あの森に近づくでない。


 おばば様はことあるごとにそう言って、あのしわしわの顔にもっとしわを寄せて、樅木みたいな濃い緑の瞳をすえてくるのだ。

 そのおばば様に、深宵の森へおいきと言われたわたしは、ひどくびっくりしてしまった。妖のところに追い出されるくらい、悪いことをしてしまっただろうか。身を縮こまらせたわたしを、おばば様はしっかりと見つめて、森の奥の奥へ行けともう一度言う。

 おまえももう十を数える。そろそろ頃合いだろう。使いへ行っておくれ。

 そうして旅の荷物一式と、紅色の香と、銀の鈴をもらった。深宵の森へ行って、奥の奥にいるおとこに、その香を渡してこいと言うのだ。有無を言わせぬおばば様にわたしが逆らえるわけもない。

 半べそをかきながら、わたしはいってきますと村を出た。


 足を止めたら、影にひそむなにかが近寄ってきそうで、わたしはずっとずっと足を動かし続けた。怖くなんてない。おばば様から秘術を教わっているもの。あんなものが、怖いなんてわけない。頭を振って先を急ぐ。しっとりとした空気が体にまとわりついてきて、たまにぽつりと雫が落ちる。びくりと肩がはねたのも、口から情けない声が出たのも、ぜんぶ気のせい。怖くなんてないんだ。

 やわらかい革靴だとすべってしまい、木の根をこえるときは気をつけなければならない。もう三度も足をすべらせた。

 細くて草にうもれてしまっているけもの道は途切れてしまっていて、あせって探してどうにか道を見つけることのくりかえし。ひやりとした空気が肌をなで、体はすっかり冷たい。


 ――暗闇に包まれても止まるな。鈴を鳴らしながら木の幹を伝って、苔に足を取られても気にせずにすすめ。シダの生い茂る岩肌が見えたら、そのなかで一番きれいな葉をひと房とって、奥にある小さな泉へ浮かべてごらん。


 おばば様に言われたことを、忘れないように唱えながらずっと歩いた。

 おばば様が持たせた鈴は腰紐にくくってあって、わたしが歩くたびにどこかこもった音を転がした。遠くまで響くわけでも、高く奏でるわけでもない鈴。くすんだ銀色の肌はつるりとした手触りだ。歩くと鳴っているのかわからないほど、小さな音がしている。

 その鈴がゆれるのを感じながらどうにかこうにか暗い森を奥へとすすんでいくと、高い崖に行き当たった。ごつごつ岩が重なっていて、隙間から三角のシダの葉がたれている。おばば様の言った、シダの岩肌だ。


 ほうとため息がこぼれた。迷っていたような気がしていたが、どうやら目的の場所にちゃんと向かえたようだ。

 朝早くに村を出て、もうすっかり陽が高くのぼっている。葉っぱの隙間から陽がこぼれているのに、やっぱり夕暮れみたいに暗かった。目を凝らして岩肌を眺める。おばば様の言葉を思い出しながら、シダの葉を探した。


 ――一番きれいな葉をひと房とって、奥にある小さな泉へ浮かべてごらん。


 きれいな葉っぱ。どれのことだろう。ぐるりと首をめぐらせる。崖は、一番上を見あげるとうしろに転んでしまいそうなくらい高い。いろんな石が折り重なって、隙間からゆれる緑。その落とす影がいっそう岩を隠している。

 高いところのシダを取るのは無理だ。わたしの背は村のこどものなかでも小さい。この間、ようやっと薬棚の一番上が開けられるようになったところだ。隣の家の幼馴染は、もうその棚と背がおなじだというのに。

 上のほうはあきらめて、シダをぐるりと眺める。左の端から右の端まで。また左に向かって視線を動かすと、きらりとなにかが光って、あわててわたしの首は右に戻った。


 わたしが背伸びをして、とどくかどうかのところにある葉。両手の手のひらを合わせたくらいの大きさで、木漏れ日がちょうど当たって、先っぽの朝露がきらりと光った。

 岩をおおった苔に手をついて踵をあげる。めいっぱい手を伸ばしたけれど、あと少しでとどかない。飛び上がろうか考えたが、葉をちぎってしまいそうでやめた。

 わたしは背中にくくっていた荷物を草の上に置く。着物の袖をまくってから、ふたつ、石を上った。苔は朝露でしめっていて、なめし革の靴がずるりとすべる。冷たい、土のにおいのする石にへばりついて踏ん張ると、ぱきっと音がして、なんとか葉を手折ることができた。


 シダの葉。黄緑色で、まだ少しわかい葉っぱのようだった。

 その茎を持って、荷物も持って、わたしは岩肌を奥へ奥へすすむ。小さな泉を探さなければいけない。

 りん、と小さく鈴が鳴って、思わず足を止めると、かすかな水の音が聞こえた。

 大きな木の向こうに岩がまた重なっていて、水の音はそこからするようだ。のぞくと、井戸くらいの大きさの泉があった。水がたえずに湧いていて、こぽこぽと涼しい音を立てる。

 わたしは膝をついて泉をのぞきこむ。透きとおった水面に、そっとシダの葉をのせてみた。

 浮いた葉がふらりふらりと泡にあおられてゆれている。しばらく眺めていると、風はないのにくるりと円を描いて、それからゆっくりと沈んでいった。


 はっと顔をあげると、わたしのまわりにはもやがただよっている。あっという間に霧に包まれてしまった。

 りん、と小さく鈴が鳴った。

 森の緑も、岩肌も、目の前にあった泉までも、ぜんぶ霧がおおって真っ白だった。どうしよう。迷ったわたしは、それでも、もう一度鳴った鈴の音におされて足を踏み出す。泉の水面にとどくはずのそれは、しっかりと地面を踏みしめた。

 ほっとしたのもつかの間、この霧に今度は戸惑う。あきらかに不自然で、森の妖が関係しているのではないか。

 おばば様に教わった祝詞を繰り返しながら、わたしはゆっくりと、霧が薄いほうを目指してすすむことにした。


 さらさらと水が流れる音がする。霧がわたしをよけて道ができていくのを、ぐっと唇をかんで歩みをすすめる。心臓がうるさいくらいに鳴っているけれど、わたしはちょっとだけ秘術が使えるし、大丈夫だ。怖くなんてない。

 口のなかで祝詞を唱えていると、鈴がそれに合わせるように音を転がす。りん、と音が響くと、まぶしいくらいの明かりがさして、ぱっと霧が晴れた。


 するとそこは、水辺の森だった。澄んだ水辺に、大きな大きな木が何本も根を広げている。息をのむほどの、鮮やかな緑色。

 石のつくった段差を滝のように、木を伝って雨水がこぼれるように、岩と岩の間を川のように、きれいな水が流れては音を立てている。

 その水辺に、森の木よりもずっとずっと大きな木が幾千もの根をはわせてたたずむ。今にも根を足にして動き出しそうなくらい、立派で大きな木だった。

 苔むした幹からはきのこやシダの葉も生えて、むっと土と水のにおいがした。足元を見ると、水辺に石が連なって細い道を作っている。りんと鳴った鈴にうながされ、わたしはまたその小路をすすんだ。


 絵物語のようなその光景に首をめぐらせながら、わたしはおばば様の言葉を思い出して奥へ奥へと向かう。

 わたしが追いこすまでに十歩は必要なくらい大きな木。小路にもはい出ている根をこえて、シダの葉もかきわけて、大きな木を六本追い抜いたところで、ようやくわたしは足を止めた。

 いっとう大きな木の、そのもりあがった根が作る洞窟の前に立つと、なかからこぼれる灯りが見えた。

 近寄って、根に手をそえる。背伸びしてそっとなかをうかがうと、ひやりとした空気が足元から舞った。


「おやおや」


 背中からの声に、はっとわたしは振り返る。――男が立っていた。


 驚きすぎて声は出なかった。ひっと情けなく咽喉が鳴って、背後に立った長身に肩がはねる。

 白っぽい長い髪に、黒い着物。そして、白い布面。

 顔は見えない。額から鼻にかけてをおおう布面が、よけいにその存在を異様に思わせる。布は透けていない。形のよい唇がゆっくりと動いた。


「鈴の音がちがうと思えば。小さな人の子が、なんの用だえ?」


 深みのある不思議な抑揚を持つ声と、布面の向こうからそそがれる視線に、わたしは後ずさりをしたがる足を必死に踏ん張る。まとう空気が人のそれではない。おばば様が言っていた男というのは、この白い面の人だとすぐにわかった。

 わたしは慌てて荷物から包みを取り出す。藍色に染めあげた布をはらりとくずし、紅色の香を見せた。


「わ、わたしは、紡ぐ村のサキ。おばば様から、これをあずかったの」


 山の形のそれを、白くて長い指がそっとつまむ。刺繍の入った白い袖がさらりと音を立てた。わたしの横を音もなくとおりすぎて、根の洞窟へ入っていく。

 髪は白にも銀にも見えた。半分から上を結っていて、あとは背に流している。腰ほどまでに長い。その髪が洞窟のなかの灯りできらきらと光っている。


「おばばか、おばば。するとこの小さな人の子は、あれが話した孫娘かえ。……そうかそうか、もうそれほど時が経つのか」


 不思議な声音がひとりごつと、ほんのわずかにその歩をゆるめる。


「おいで。おまえのおばばの用をきいてやらねば」


 それだけ言うと、どんどん奥へと行ってしまう。姿が見えなくなる前に、わたしは急いでそのあとを追った。


 木の根に光の玉がからまって、洞窟のなかを照らしている。近くや遠くでふわりとゆれる光が、夏の森の木漏れ日みたいだ。ぼんやりとした灯りが無数にまたたいて足元を照らした。

 白い着物の背中に導かれた先は、ぽっかりとあいた根の隙間。

 男はここで生活しているようだった。おばば様の部屋に似ていて、張られた天蓋のなかには天秤や乳鉢などの薬を調合する道具が広げられている。天蓋の外には細かい引出しがたくさんついた薬棚が並んで、横には木の机。足元は石畳で、木の根が壁のかわりに四方を囲った。

 大きな大きな木の根に守られた部屋。その主は、この妖のすむと言われる深宵の森の主なのだろうか。


 しゅっと音がしたのに息をのむと、男が香炉で紅色のそれに炎をともしていた。机の上に置かれた、まろい陶器からつっと煙がのぼる。

 筋を描いて木の根の天井まで伸びると、ふわりとその形をかえた。文字だ。かいだことのない香りをくゆらせて、煙は文字へと姿をかえる。

 わたしには読めなかった。読めない文字が、ゆっくりと天井に向かっていって、根の隙間に吸い込まれるようにして消える。

 香の最後が灰になってほろりとくずれると、かすかなため息が布面をゆらした。ひと言も口をきかずにその煙の文字を眺めていたわたしは、見えない目のあたりを振り返る。男は香炉を薬棚の上へと置いた。


「まったく、使いの荒いこと」


 呆れたような声色が意外で、わたしはまじまじと相手を見あげた。この男は、妖だ。妖もこうして感情を出すのか。

 目を丸めるわたしに、男は首をかしげた。


「おばばの頼みはきかねばならぬ。おまえは、荷を持たされたのだろう。おばばのところに帰るのは明日になるから、それまで遊んで待っておれ。この水辺から出なければ、どこへなりとも行ってよい」


 ひと晩、ここで過ごす。その事実にわたしは固まってしまった。

 たしかに、おばば様が持たせた荷には、着物も手ぬぐいも、おやつにする李も入っている。それがまさか、泊まりのためだとは思ってもみなかった。

 この深宵の森の奥の奥で、ひとり朝になるのを待たなければならないのか。

 言葉をなくしたわたしを、布面の男は気にした様子もなく、見えない視線で水辺へうながす。


「鈴をなくすと、さらわれると覚えておいで」


 さあこれで話はしまいだ。追い打ちをかけるその声に、わたしはぎゅっと唇をかんで踵を返す。祝詞を唱えながら根の洞窟を駆けた。




***




 陽が暮れるにつれて、水辺のなかをたゆたう光の玉がふえていく。もしかしたら、数はかわらずに、暗闇のおかげで目立つようになっただけかもしれない。

 ふわりふわりと浮かぶ光はわたしの手のひらくらいで、木の根にからまっていたり、葉にまぎれていたり、いたるところで灯りとなった。蛍の光みたいだ。強くはない、やわらかな光。たまにゆれては光を弱めたり強めたり。

 苔やシダの葉についた雫に、光の玉が反射してきらきらと光った。わたしはそれを、根の洞窟の前に腰かけて眺める。


 ひやりとした空気が腕や頬をなでるときにびくっとするけれど、そのたびに鈴が腰にくくられているのを確認してやりすごす。

 そしてまた光たちが舞う不思議な光景に目を戻すのだ。

 木々の合間からのぞいていた空が青から橙に色を変え、色をなくして真っ暗になると、いっそう光の玉が輝いた。夜空のなかにぽつんといるみたいだ。


「よしよし。かどわかされてはおらぬな」


 暗闇に不思議な声音が響いた。

 はっとして振り返ると、布面の男がすらりと立っている。手には和紙のはられた灯篭があった。


「おまえは小さいから、腹がすいただろう。そして眠かろう。――おいで。おまえの寝床を作っておいた」


 さらりと着物を鳴らして根の洞窟へと戻る男に、わたしは着物についた土を払いながらついていく。

 洞窟でもやっぱり光の玉がまたたいて、星がささやいているようだった。灯篭からの灯りがわたしの少し前を照らしてくれる。男の背中とその灯りを交互に見ていると、奥の間に着いてしまった。

 灯篭の持ち手をはずして机にことりと置く。香の手紙をたいたここは、木の幹のちょうど真下なのかもしれない。

 洞窟よりも天井に隙間が少なくて、光の玉がちょっとだけ遠い。机の上の灯篭以外にも、壁や棚の上には灯りがともされていた。


「そこへお座り。泉の水と、葛餅だ。おばばがおまえの好物だと言ってな、さっき作ってみたのだ」


 天蓋の前に厚い布が敷かれていて、そこに置かれたふかふかの座布団をしめす。紅色の生地に銀糸の刺繍がさされた上等なものだ。

 わたしは靴をぬいで、恐る恐る腰をおろした。大きくて厚いから、すっぽりとわたしのお尻を受け止めてくれる。

 座布団の前には、ふたつ並んだ丸い葛餅、ガラスの水差しと器。


「おばばに持たされた李もあるなら、それもおあがり。おまえはきっと、食べる間がなかったろうと言っていたぞ」


 そんなことが香の手紙に書かれていたのか。

 おばば様に見透かされ、この男にもばれてしまってわたしの顔は真っ赤だ。恥ずかしさをごまかすように、白蜜のかかった葛餅に楊枝を入れて頬張る。それを布面の向こうで男が楽しげに眺めていた。


 李までもを食べ終えると、とろんと瞼が重たくなった。こしこしとこするわたしを見て、天蓋の下で香をたいていた男が手を止める。


「そろそろ寝床にゆくとするか。おいで。鈴も荷も持っておいで」


 壁から灯りをひとつ取って、天蓋の裏へと回った。まだ奥があったのか。驚きながら、わたしはその灯りと背中をあわてて追った。

 木の根をくぐった先には、また水辺がある。男の部屋から数歩しか離れていないのに、すぐそこに水面が迫っていた。木で組んだ舟がゆらりゆらりと流れにゆれる。

 いかだに近い形で天蓋のついたその舟は、二か所からのびた縄でつながっていた。なかに敷布と座布団、そして寝台がそろえられている。


 ひょいとふちをこえて手招くので、わたしもまねをして舟に乗り込む。ゆらりゆらり。歩くのにあわせて舟もゆれる。

 寝台を見てからわたしを振り返るので、わたしは荷を置いて、靴を脱いで、寝台へともぐりこんだ。綿花をふんだんに使った布団はふかふかで、瞼が勝手におりてしまう。

 むりやり目をこじ開けて男を見ると、相手はふっと唇に笑みを浮かべて枕元に座す。


「明日になるまで、少しお眠り。水が疲れを癒やすだろう」


 指の長い白い手がのびて、わたしの瞼をおおった。森のなかとおなじでひんやりとした手だった。その心地よさに抗うことはむずかしい。

 さらさらと水の子守歌にのせられて、わたしはゆるやかな眠りに落ちていった。

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