彼氏にフラれた私が人生で最高のスパゲティ・ナポリタンを食べた話
「許せないわ……!」
理香子は半透明になった自分の両手を見つめ、それから歯を剥き出しにし髪を掻き毟った。
死んでしまった……。
長年大切に手入れしてきた髪も肌も、全てが水の泡になってしまった。理香子が恐る恐る鏡を覗き込むと、自分の姿は向こう側の景色が透けて見えた。彼女はそれで、自分が死んで幽霊になってしまったのだと知った。
「あの男……! 許せない……!!」
理香子は新品の白装束が汚れるのもお構い無しに、脇目も振らずズンズンと道を走って行った。半透明になった彼女は家の壁を真っ直ぐすり抜け、赤信号も、突っ込んでくる車の群の中を平然と渡りきった。彼女の剣幕に、道端にいた幽霊たちは何事かと顔を見合わせた。
「どうしたの?」
理香子が裏通りを走っていると、電信柱の陰にいた少女の幽霊が不思議そうに声をかけてきた。理香子は無視して進もうかと思ったが、生前から自分の話を聞いてくれる人は大好きだったので、立ち止まってヒステリックに叫んだ。
「どうしたもこうしたも無いわ! 私、殺されたのよ!!」
「殺された?」
顔中のシワをこれでもかと中央に寄せてくる理香子に、少女の幽霊はキョトンと首をひねった。
「誰に?」
「彼よ! 元カレッ! 三年も付き合ったのに……!」
そこまで言って、理香子はボロボロと涙をこぼし始めた。少女が指をくわえて見ている前で、理香子は電信柱の下にうずくまった。理香子はポケットから取り出した新品の白いハンカチを口にくわえて引っ張った。
「ヒドイ……ッ! 達夫ったら、私を弄んだのッ!! あれだけ尽くしたのに、隠れて浮気してたの。本命がいたのよッ! 私は遊びだったんだわッ!!」
「お姉ちゃん……」
「挙句、”一緒に心中しよう”だなんて。”君と一緒なら死ねる”だなんて。心にも無いことをッ! 信じた私がばかだったわ……練炭を買って二人でドライブに出かけたんだけど……気がついたら車の中はもぬけの殻で、結局私一人だけが死んだの」
理香子は大声を上げて泣いた。透き通って見える彼女の顔は、怒りで真っ赤に染まり、シワが寄りすぎて梅干しのようになっていた。
「そして気がついたら、幽霊になってたの。あの男……許せない!! 私が幽霊になったからには、末代まで呪ってやるわ!! 幽霊パワーで、体がひん曲がるくらいギッタンギッタンの、バッコンバッコンにしばき回して……ッ」
「うらやましいな……」
「何ですって?」
ギリギリとハンカチを引き千切ろうとしていた理香子は、少女の言葉に思わず顔を上げた。
「羨ましい? 恨めしいの間違いじゃなくって?」
「違うの。羨ましいの」
「どこがよ!」
理香子が鬼の形相で少女を睨んだ。
「あなたみたいな子供に、私の何が分かるっていうの!? 心から愛していた人に捨てられる苦しみが! ああッ! これから結婚とか出産、育児、職場復帰、資産運用年金確保その他モロモロ……色々計画してたのに……ッ私の人生、全てパアだわ!」
「分からないから羨ましいのよ」
天を仰ぐ理香子を見つめ、少女の幽霊がポツリと呟いた。
「あたしは誰かを恨む前に、捨てられちゃったから」
「え?」
そこで理香子はようやく初めて、少女の幽霊を真正面から見た。少女はオレンジがかったウェーブの髪をなびかせて、そばかすだらけの頬で電信柱の陰に立っていた。理香子は零れる涙を拭きながら尋ねた。
「……あなたは誰? お名前は何ていうの?」
「あたしはスパゲティ・ナポリタ子」
「ナポリタ子!」
あまりの語感に、それまで怒り狂っていた理香子も思わず絶句した。そう言われると、確かに髪型が何となくスパゲティっぽい。ナポリタ子は電信柱の隅に捨てられた弁当の廃棄を指差した。
「あたしは、工場で生まれたの。スパゲティ・ナポリタンとして。唐揚げ弁当の端っこに乗って、誰かに食べてもらおうとお店に運ばれて行ったの」
理香子が少女の指先を見つめた。地面に転がる弁当箱の中には、中身が食べられもせず丸々残されていた。ナポリタ子の顔が陰った。
「でも、結局誰にも食べられることはなかった。”賞味期限”だって言われて……訳も分からないまま、あたしは捨てられたわ。食べ物なのに、食べられもしないだなんて」
「ナポリタ子……」
「そして気がついたら、幽霊になってた。だからあたし、誰かに愛されることも、何も知らないわ。分からないの」
「…………」
「あたしは、何のために生まれてきたの? あたしは、誰を恨めば良かったの?」
「リタ子!」
気がつくと、理香子は少女を抱きしめていた。少女は理香子の両目から流れる涙を不思議そうに眺めていた。
「どうしたの? お姉ちゃん、大丈夫?」
「ええ……ッ! 大丈夫、大丈夫よッ! リタ子……もう大丈夫。あなたは私が食べるわ!」
「ええっ?」
理香子の言葉に、少女は恥ずかしそうにほっぺたをケチャップ色に染めた。
「そんな……いいよ、無理しなくって。あたし、もうゴミだし……」
「ゴミなんかじゃないッ! あなたは立派なスパゲティ・ナポリタンよ。私が今まで出会った中で、最高のナポリタンッ!!」
「お姉ちゃん……」
「平気よ。私、幽霊になったんだから……多少のことじゃ、胃もたれしないわ。これくらい、どうってことない……」
「ありがとう、お姉ちゃん。でも、気持ちだけで十分だよ」
ボロボロと涙を流す理香子を、少女はそっと抱きかえし、彼女の頭をポンポンと撫でた。
「あたしも、お姉ちゃんにできることやってあげたいな」
「リタ子……!」
それから二人は電信柱の陰で、しばらく抱き合って大声で涙を流した。二人の様子に、道ゆく幽霊たちは何事かと顔を見合わせた。
「それで……あ〜……気がついたら?」
「そうなんです。おれ、俺……!」
「安心してください。精神科の紹介状を書いておきますので」
「そんなッ!? 先生、信じてくださいッ! 俺は今、スパゲティの幽霊に襲われているんですッ!!」
「信じますよ。ええ、信じますとも」
「本当なんです! 夜な夜な、スパゲティ・ナポリタンが俺の枕元に……おかげでべちゃべちゃして、全然眠れないんです」
「そりゃ大変だ」
「それに、ふと耳をすますと、何処からかスパゲティを啜る女の声が聞こえて……! 『美味しい、美味しい』って、囁くように……ッ!!」
「あ〜……あなた何か、スパゲティの恨みを買うようなことは?」
「知りませんよ、そんなこと!? スパゲティなんて、そんなの全然気にしたこともない……ッ!」
「安心してください。紹介状を書いておきますので」
「待ってください! 先生ッ!? 先生ーッ!?」
「お大事に。はい、次の方ぁ〜……」