三:アイ・ヘイト・ユー
「ほらほら、こっちですよー。早く来ないと、置いて行っちゃいますよー?」
雪で覆われた瓦礫の中を軽快に進んでいく白絹雫の後を、僕は息を切らせながら追いかけていた。
長期間コールドスリープされていたことによって、筋力、体力が低下することはない、と事前に説明をしてくれた技術員の言葉を思い出す。
つまり今、けろりとした顔で進んでいく彼女に追いつくために、情けないくらいにぜぇぜぇと息を切らしているのは、ひとえに自分の運動不足が原因という事だ。
人並みには体力がある方だと思っていたけれど……あんな華奢な女の子に追いつけないとなると、認識を改めなくてはならない。
最も僕はコールドスリープから目覚めたばかりで、登山バックみたいな大きなザックを背負っているという大きな負荷はある訳だけど、それにしたって情けない。
肺がもっともっとと酸素を求めている。
整わない呼吸でそれに応えようとして、冷え切った外気が鼻腔を割く痛みに僕は顔をしかめた。
仕方なく大きく口から息を吸い込むと、透明度の高い空気が一気に肺を満たした。
代わりに吐き出した熱い息が、真っ白に染まって立ち上っていく。何本も何本も、立ち上る。
足を止めて、服の袖で汗を拭いた。こんなに寒くても汗って出るんだな、なんて当然の事を思う。
冷蔵庫の中より寒い外気の中で、火照り、熱を帯びた体は、どこか世界の中で浮いた存在のように思えた。
ざくり、と音がした。
顔をあげると、白絹雫がわざわざ戻って来て、僕の周りをゆっくりと歩いていた。ざくざくと雪を踏む足音は、どこか楽しそうに聞こえる。
「能力はゴミで、体力もない。うふふ……生きてて恥ずかしくありませんか?」
「ちょっと……今……話しかけないで、もらえます?」
「はーい。じゃぁ、そこの黒い水たまりに触ると死んじゃうこととか、あっちの木のうろの中に凶悪な人食い虫がいる事とか、そういう些細な事も、言わず教えず、黙ってますねー」
「すみませんシャレにならないのでそれは教えてください」
「あらあら、かっこ悪いですねー」
この毒舌女が、と吐き出したくなる気持ちを抑えつつ、僕は再び歩を進める。
彼女の助言がなければ、生きて一番近くの街にたどり着くことができないのは確かだ。
カテゴリーⅠ、天災、白絹雫。
彼女が僕に同行してくれることになった経緯を、僕はその細い背中を見ながらぼんやりと思い出した。
◆◆◆
「さてさてさて、っと」
ムカデのお化けをあっけなく無力化した白絹雫は、きゅっとその場で百八十度回転して、僕の方を向いた。クリーム色のトレンチコートと、ワインレッドのロングスカートの裾がふわりと舞う。
赤いスカートは真っ白な雪の上でよく映えていて、なんだかショートケーキの上に飾られたイチゴみたいだなぁ、なんて馬鹿な感想が脳裏をよぎった。
「色々と事情を説明してもらえますか? どうやってここまでたどり着けたのか。どうしてここに来たのか。そして――――」
一歩、また一歩と近づいて来た彼女は、やがて手が届く位の距離まで来ると、僕の胸に人差し指をとんっと置いて、いたずらっぽく笑った。
「何故、私に魅了されないのか」
「……一つ目と二つ目の質問への回答は同じです。僕がついさっき、ここでコールドスリープから目覚めたからです」
「ここで……?」
訝し気な表情を作った彼女に、AIが補足で説明を加えた。
【この場所には研究所がありましたが、2239年前に崩壊しています。原因は不明です。奇跡的にこちらの一条楓が保管されていた機体のみ、無傷で残っていました】
「あらあら、良く喋るAIさんですね。こんにちは。それが本当だとすると、さっき、えーっと……楓さん? を機体から出したのは、軽率だったんじゃありません?」
【……】
話の流れがよく分からず、僕は口を挟んだ。
「どういう事ですか?」
「コールドスリープから被験者を覚醒させる際には、AIが『周囲が絶対安全であること』を確認しなければならないんです。さっき、センチピードに襲われてましたよね?」
センチピード……あのムカデのお化けの事か。
高校時代に覚えた英単語を思い出して、僕は黙って頷いた。
「あんなのが居たら、普通AIは被験者を機内から出さないはずです。もしかして、故障でもしてるんですか?」
「あー、それは多分……」
「多分?」
「僕がAIの会話タイプをちょっと特殊に設定したからじゃないかなぁ、とか……」
「会話タイプ? ……あぁ、あの初期設定の。あんなの、男性か女性かくらいしか選択肢ないと思ってましたけど……」
あんなに多種多様な選択肢を用意していた技術者の努力が浮かばれない彼女のセリフに、僕は思わず笑いそうになる。
「因みにどんな設定にしたんですか?」
「しっかりしてるけどちょっと天然の女性、です」
【情報に不足があります。正確には、『クールな一方涙もろく、しっかりしてるつもりだが実は結構天然で、そこを指摘されると『そんなことありません。何言ってるんですか? 馬鹿なんですか?』と罵倒してくるけれど、顔は真っ赤になっていて、仲良くなってくるとたまに垣間見える子供っぽい部分が魅力的な黒髪ロングの女性』です】
うわぁあああああああ! やめてあげてよぉおおおお!
折角! 折角人が最低限必要な情報だけにとどめたのに!
なんてことしてくれるんだこのド天然AI!
恥ずかしさのあまり顔を手で覆って嘆く僕に、白絹雫は笑顔で追い打ちをかけた。
「ふふ、なんて言ったらいいんでしょう……。控えめに言って、すごく気色悪いと思いました」
「最初の方から思ってたんですけど、言葉に毒仕込みすぎじゃないですか? アサシンの末裔か何か?」
ド直球な感想にほろ苦い毒舌を添えて、みたいな言葉の暗器を大量生成する彼女に、僕は精いっぱいの苦言を呈する。罵倒されるのは嫌いじゃないけど、この人のは常軌を逸していると思う。
一体どんな風に育ったらこうなるんだ。
「天然、の部分がAIの思考プログラムに定期的にバグを起こさせるように仕向けているのでしょうか……なんにせよ、開発者の情熱を傾ける方向が明後日過ぎて、かなり引きますね……」
【可能性はあります。貴方が来ていなければ、一条楓は死んでいたかもしれません。本当にありがとうございました】
「あら、真面目ですねー。ですがどうぞお気になさらず、AIさん。私は私で、良い事がありましたから」
そしてなんでちょっとAIには優しいんだよ。
僕が釈然としない思いを抱えていると、彼女は再び僕に視線を向け、言った。
「で、最後の質問の答えはまだですか?」
「最後の質問?」
「ニワトリの近縁種か何かで? なんで私に魅了されないのか、です」
あはは、ニワトリって三歩歩いたら忘れるって言いますもんねー。
って、やかましいわ。
「……その能力、魅了ですよね」
「よくご存じで」
「有名ですから」
カテゴリーⅠ、白絹雫の持つ能力の一つ。魅了。
簡単に言えば、全ての生物は彼女に惹きつけられる。
それは恋慕の情かもしれないし、あるいは我が子を想うような慈愛の気持ちかもしれない。
個体差はあるという話だが、いずれにせよ、彼女は全ての生物から愛される。つまり、いかなる生物も彼女を傷つけない。さっきのセンチピードの様に。
【魅了のからくりは、周囲の生物の脳内におけるドーパミンやセロトニンと言った快楽物質、そして「絆ホルモン」とも呼ばれるオキシトシンを過剰発現させることにあります。魅了を受けた生物は白絹雫様を愛おしくて愛おしくてたまらなくなる、ということです。一方、一条楓の能力は感情制御。脳内物質の動きを自由に操ることができます。ゆえに、白絹雫様の魅了を受けても影響を受けなかった、と推測されます】
「そういうことです」
僕は特に何も付け加えることなく頷く。
息をするように、瞬きをするように、自然に、簡単に、当たり前に、僕は感情をコントロールできる。
本当に、ただそれだけの能力だ。
「感情制御……? どのカテゴリーに分類されるんですか? V?」
「……〇(ゼロ)です」
「あら、ゴミ箱じゃないですか」
言うと思った。意味はないと思いつつも、僕は訂正する。
「ゴミ箱じゃありません、カテゴライズ不能、です」
僕たちの能力は六つにカテゴライズされる。
存在するだけで環境を激変させることができる、「カテゴリーⅠ」。
複数の能力を持ち、カテゴリーⅠ程ではないものの、環境・社会への影響力が強い「カテゴリーⅡ」。
肉体強化系で、戦闘や力仕事に向いている「カテゴリーⅢ」。
対象になんらかの影響を与える特殊な能力を持つ「カテゴリーⅣ」。
通常の人間より少し優れる程度の「カテゴリーⅤ」。
そして情報の欠如によってカテゴライズが困難な「カテゴリー〇」。通称……ゴミ箱。
「どっちでも一緒です。なんにせよ、使えない能力じゃないですか」
「そりゃまぁカテゴリーⅠに比べたらそうですけど……」
「ふふっ……あーあ、可哀そう。そんな能力じゃ、街にたどり着くまでに死んじゃいますよー?」
手を後ろで組んで小首をかしげ、可愛らしいポーズと表情で、彼女は相変わらず辛辣な言葉を投げかけてくる。
なんでこの人、さっきからこんなに楽しそうなんだ?
あれかな? 自分より下の人間を見て優越感に浸る、そういうタイプの人間なのかな?
「死ぬなんてそんな大げさな……」
「この辺、オーガ・インセクトの巣窟なんですよ。大体私が殺しましたけど、またどこから湧いてくるか分かりませんねー」
【オーガ・インセクトとは、さっき貴方がセンチピード、と呼んだ生物の様な、巨大化した虫の事ですか?】
「そうです。この世界の食物連鎖の頂点は、昆虫ですから」
うわぁ、なんて嫌な世界だ……。女の子の大半が白目を剥いて倒れそうじゃないか。
あんな気色の悪いのがうじゃうじゃいるのを想像すると、鳥肌が立つ。
確かにもう一度あれに遭遇したら……しかもそれが一匹じゃなくて複数だったら。
僕なんかはあっと言う間に食べられてしまうだろう。
不安が表情に出ていたのだろうか。彼女は相変わらずご機嫌な調子で言った。
「なーのーで。しょうがないから、私が街まで護衛してあげます。嬉しいですか?」
「……すごく、助かります」
「嬉しいですか?」
「嬉しいかと言われると……」
「嬉しいですよね?」
「嬉しいですね」
◆◆◆
自分が感情の制御をできなければ、三回くらい殴りかかってたんじゃないかという暴言をきっちり思い出し、僕は乾いた笑いを飲み込んだ。
ざくざくと傾斜のきつい坂を登っていると、遠くの木陰で何かが動いた。
目を凝らしてみてみると、どうやらキツネに似た生物のようだ。僕が知っているキツネに比べると耳が小さく、体が大きい気がする。いわゆる、ベルクマンの法則に従ったのだろうか。
【それにしても……やはり環境、生態系の変化には、目を見張るものがありますね】
「ですね……」
寒気の訪れは、植層はもちろんの事、動物の生態系にも甚大な影響を及ぼしたようだ。
まさか昆虫が食物連鎖のトップに立つ時代が来ることになるとは夢にも思わなかった。
「なんで昆虫だけ劇的に変わったんでしょう」
さっきのキツネみたいのは、少々見た目が変わっていたとはいえ、予想の範疇を超えない変化だった。
だが、あのムカデは違う。あんなのが五千年前にいたら、害虫駆除の業者も失神するだろう。
【分かりません。が、ストレージデータと現状から仮説を立てることはできます】
「それは?」
【簡単に言えば、ゲノムサイズの違いと、世代時間が関係しているのではないか、ということです】
「げのむさいず、と、せだいじかん」
【ゲノムサイズは、その生物が持つDNA量、世代時間は、その生物が子供を産むまでにかかる時間です。DNA量が多ければ、その分環境に適応する遺伝子が生じる可能性が高くなりますが、その分生物としての複雑さ、つまり生殖様式や生活環の複雑さが増します。つまり、子どもを産むまでの時間が増大します。脊椎動物ははるか昔、進化の初期段階で全ゲノム重複が生じ、DNA量が無脊椎動物に比べ多くなっているという仮説、通称2R仮説が立てられています。進化速度はDNAの塩基置換速度に起因し、生物の塩基置換速度は世代交代時間が短いほど早くなります。進化速度が早ければ当然、環境へ適応できる可能性も高くなります。五千年前から生じた気候変動は劇的で、ゲノムサイズの大きさよりもむしろ、世代交代時間が短い生物の方が有利だった可能性があります。よって高等生物ではなく、下等生物である昆虫が劇的に進化し、生態系の頂点に位置した、と推測できます】
「ごめんなさい、どこまでが日本語でした?」
【どこまでも日本語でしたが?】
うっそだろ、おい。とツッコミたくなるくらい、AIの話した内容を僕は理解できなかった。
絶句する僕と胸ポケットに入ったAIに、白絹雫が語り掛ける。
「AIさんの推測は素晴らしいですが、説明が下手すぎますね。研究者向きで教師向きではない感じです」
【……ぅ…………では貴方が説明してみてください】
ねぇ、今、むぅって言った? どこまで感情豊かなんだこのAI。
「うふふ、拗ねないでください。推測自体は現状を加味していてとってもリーズナブルだと思いますし。そうですね……楓さん。擬態って知ってますか?」
「虫が外敵に食べられないように葉っぱとか木の幹とかに似た模様を持つ、あれですか?」
「そうです。勿論例外はありますが、あれだけ体の模様を鮮烈に変化させた生物は、昆虫を除けばほとんどいません。では何故、昆虫だけ高い擬態能力を獲得できたと思いますか?」
「あ、もしかして、それが進化速度……」
その通りです。と人差し指を顔の横で軽く振って彼女は笑った。
中学の頃勉強を教えてくれていた、近所のお姉さんの事をふと思い出した。
「昆虫は沢山の子供を、とても速い間隔で生み出します。DNAに突然変異が生じる確率は、他の生物の比ではありません。千匹の子供の中に一匹、葉っぱに少し似ている個体がいたとしましょう。その個体がまた子供を残せば、より葉っぱに似た個体が生まれます。何度も何度もそれを繰り返すことで、葉っぱに酷似した、外敵に見つかりにくい模様を持つ昆虫が生まれるんです。これが適応ですね」
「つまり、劇的に環境が変動した世界では、進化速度の速い昆虫が有利だった可能性がある、と」
「はい、よくできました」
そう言うと、白絹雫は優しく微笑んだ。悔しいが、とても分かりやすい説明だった。
誰かにモノを教える事に、非常に慣れているように思える。
「ただし、普通はあんなに急激に気候が変動する事はありません。通常の場合は、むしろDNA量が多い方。つまり、環境に適応しつつ確実に子孫を残すことのできる脊椎動物の方が有利です。五千年前までは脊椎動物が生態系の上位を独占していたのはこれが原因です。AIさんが説明していた、ゲノムサイズ、の話はここに該当します。ですよね?」
【その通りです。大変勉強になりました、白絹雫様】
「様は仰々しいですよー、せめて「雫さん」でお願いします」
【承知しました、雫さん】
「あなたもです、楓さん」
「はい?」
「ずっと敬語ですよね。まどろっこしいので、やめてください。多分私の方が年下ですし」
えぇぇ、うっそー……。この落ち着きよう、風格で僕より年下?
という事はあれかな? 僕は自分より年下の女の子に、体力も負け、身にまとうオーラも負け、挙句の果てには知力も負けているという……だめだこれ以上は考えないでおこう。
「分かった、よろしく、えーと……」
「雫でいいですよ」
「よろしく、雫」
「ふふ、体力も知力も負けている年下相手に敬語なんて使ったら、みじめ極まりないでしょうし? 私の寛大な心に感謝してくださいね?」
「あはは、うん。これで思う存分ツッコめると思うと清々しい気分だよ、ありがとう」
「ふふ、無い知恵絞ってうまく言いくるめようと頑張るあなたの姿を思い描くと、滑稽で滑稽で……それだけでご飯三杯くらい食べられそうですね」
「――――っのやろ……」
相変わらず一言多い雫の言葉に、頬がぴくりと動きそうになる。反射的に腹立たしい気持ちをコントロールして鎮め、冷静な思考を取り戻した。
相手は年下と言う話だし、こんな事で一々腹を立てていても仕方ない。仕方ないから冷静になろうな、僕。
しかし――――なんか引っ掛かるんだよな……
『あー! いたいた! やーっと見つけたー!』
『ゴミはゴミらしく、大人しくそこで待っていてください』
『はい、よくできました』
彼女と出会ってからの会話を思い出し、その原因を探ろうとする。
なんだろう、なんかこう……うまく言葉にはできないけど……
「どうしたんですか? ニュウドウカジカみたいな顔して」
「誰が不細工だぶっ飛ばすぞこの野郎」
うん、うまく言葉にはできないけれど、多分僕はこの子の事が嫌いだと思う。
「さ、馬鹿な事を言っている間に、見えてきましたよ」
気づけば、僕らは廃墟の外に出ていた。
太陽は既に傾いて来ていて、弱々しい橙色の光があたりを染め上げている。
瓦礫による視界の遮断がなくなって、僕の目には五千年経った日本の風景が飛び込んできた。
見渡す限りの雪景色。
ノルウェーとか、アイルランドとか、アラスカとか……とにかく寒い地域の写真でしか見たことのないような圧倒的な広さと、寒さと、そして寂しさがそこにはあった。
その中で一つだけ、異質な建物が見えた。
例えるならそう、めちゃくちゃ大きなドーム球場。大阪ドームというよりは、東京ドームの方が、見た目は似ている。
広陵とした雪景色の中、ずっしりと佇むその建物に目を奪われている僕に、雫は言った。
「あれが人類の住処でありシェルター。通称『コロニー』です」