プロローグ
【コード認証。シリアルナンバー AGti290Ko39 カテゴリーI 白絹雫。タイプ・女性。指紋認証――――クリア。網膜認証――――クリア。声紋認証に移ります。声を発してください】
狭い機内に響く女性の声は、機械的で温かさを感じない。
言われた通りに声を発すると、自分の声も似た様なもので、思わず苦笑いがこぼれた。
【クリア。本人認証終了。これよりコールドスリープモードに移行します。目を閉じ、そのまま暫くお待ちください。解凍後のコンディションを考慮し、目を開けたままのコールドスリープは推奨されておりません】
はーい、と小さく呟き、雫は目を閉じた。
どうせ目を開けていたところで何かが見えるわけではない。
瞼の裏に、数か月前まで共に暮らしていた子供たちの顔が浮かんでは消えた。
元気でね、と心の中で囁きかけると、彼らは屈託のない笑顔を見せた。
【機内温度を低下させます】
辺りがひんやりと冷たくなった。
思わず剥き出しの腕をさすりたくなるけれど、意味のない行為だと気づいた彼女は、静かにその時を待つことにした。
【機内温度が10℃を切りました。周囲の職員は速やかに移動してください。これより睡眠剤の投与に移ります】
職員、と聞き、雫はわずかに眉をひそめた。
仕方がない事ではあるが、雫が彼らに心を開くことはなかった。
(魅了に壊死、闘病に無血、だっけ。好き勝手弄ってくれちゃって……まぁ、いいけどさー)
頭の回転が鈍くなってきた。おまけにひどく眠い。
コールドスリープがどんなものなのか、勿論知らなかったけれど。こんなに穏やかに、痛みもなく進むなら悪くないかなと、雫はぼんやりと思った。
【0℃――――を切りまし――――。これ――――り血液――――保存――――】
意識が遠のいて行く。
目が覚めたら一体何年後なんだろう。
そこには一体どんな世界が広がっていて、どんな人が私を待っているのだろう。
悲観していても仕方がない。前を向いて、明るく、楽しく生きていこう。
そんな事を考えながら。
彼女は長い眠りについた。
◆◆◆
【コード認証。シリアルナンバー GTwoi0890Pi900 カテゴリー O 一条楓。タイプ・男性。指紋認証――――クリア。網膜認証――――クリア。声紋認証に移ります。声を発してください】
「お腹がすきました」
【……クリア。本人認証終了。これよりコールドスリープモードに移行します。目を閉じ、そのまま暫くお待ちください。解凍後のコンディションを考慮し、目を開けたままのコールドスリープは推奨されておりません。ついでに、体内に不純物を残す事も推奨されておりません】
「あ、この音声、録音じゃなかったんですね」
【口を閉じてください。口内、及び内臓の外気への不用意な暴露は、推奨されません】
「どうせこの後、恨みでもあんのかってくらい温度下げられて、血液を保管液に変えられて、挙句の果てに液体窒素までぶっかけられるんだから一緒でしょー。もうちょっとお喋りしましょうよ」
【……機内温度を低下させます】
「けーち」
一条楓は笑いながらそう言うと、だんだんと下がってきた機内の温度に身震いした。
「さっむっ! あの、真っ裸なんだから手加減してもらえません?」
【寒くしなければコールドスリープになりません、馬鹿なんですか?】
「あはは、それそれ。いつも通り、可愛く罵倒してくださいよ」
【……そこまで変態だとは思いませんでした。今後の付き合い方を検討しなくてはなりませんね】
「いやいや。今後も何も、もう会えないでしょう?」
【……っ】
あ、やば。と楓は小さく呟いた。
いくらなんでも今のは無い、と気づいた時にはもう遅かった。
「ごめんなさい」
【機内温度が十度を切りました。周囲の職員は速やかに移動してください】
「ごめんなさい」
【これより……睡眠剤の投与に、移ります】
「……泣いてます?」
【泣いてません】
「泣いてますね」
【泣いて、ません】
「ごめんなさい」
【泣いてないって言ってるでしょう!】
意地っ張りだなぁと笑おうとして、楓は既に自分の頬が思うように動かないことに気付いた。
別れの時は、思ったよりも早いようだ。
「泣くくらいには……悲しんでくれて、嬉しいです」
【そりゃ……くに決まってるじゃないですか……。あなたと違って感情の制御なんてできないんですから……】
「とんだポンコツ能力ですよねー」
【そんなこと……】
「ねぇ、ア…………さん」
あぁ、眠い。
とても眠い。
強い力で意識がどこかへ持って行かれそうになるのを必死に堪えながら、楓は呟く。
【……はい】
「色々有難うございました。お陰で、楽しかったです。すごく」
【……わた、わたし、もっ……】
「今が、辛くなるくらいに」
【……っ……ぁ……っぅ】
次の言葉が最後かな、と。
楓は声を振り絞って、一言一言区切る様に発した。
「会えて。良かったです。妹の事……よろしく……お願い、しま……す」
意識が遠のいて行く。
目が覚めたら一体何年後なんだろう。
そこには一体どんな世界が広がっていて、どんな人が居るのだろう。
いや……。
そもそも、人は居るのだろうか。
そんな事を考えながら、彼は意識を手放した。
◆◆◆
ある男女の話をしよう。
一人の女が眠りについた。
彼女は全ての愛を手に入れて、真実の愛を失った。
一人の男が眠りについた。
彼は不動の心を手に入れて、己の感情を見失った。
大切な何かを守るため。
大切な何かを欠落し。
大切なものを見失なった彼らは。
巡り合うべくして巡り合い。
惹かれ合うべくして、惹かれ合い。
そして――――どうしようもなく、報われない恋をする。
そんな彼らの、恋の話をしよう。