仏頂面なイラストレーター Ⅲ
彼女の意図の掴めない発言から二十分——して今、彼女の足は動きを止めた。
俺は柱の陰からそっと顔を出し、彼女の様子を窺う。
彼女の目と鼻の先には一軒のファミレス——いや、カフェが佇んでいる。
昔、まだ俺が一度目の人生であったその昔、ここにはファミレスが佇んでいたと記憶が呼びかけてきた。
そう、だったかもしれない。が、どうでもよいことだ。
時間は誰にも止められない。
神であるソルナでさえ干渉できない世界の法則。変わりゆくのは当然なのだ。
少しばかりの寂しさと虚しさが心を締め付けるのは、きっと彼女をストーキングしているからだろう。
そうやって、また嚙まずに飲み込むことにした。
彼女は暫く店内を睨んでいたが、意を決したのか店内へと消えていった。
そして当然、俺も彼女の後を追う。
落ち着いた曲調が店内を滞っている。悪くない居心地だ。
店内の端にあるテーブル席。
そこの一番端に位置する椅子に腰かけた彼女は、コーヒーを一つ注文すると、表情一つ変えずに俺のほうをじっと見つめてきた。
ひょっとすれば、ひょとしなくても、睨んでいたのかもしれない。
俺は曖昧な笑顔を一つ返し、すぐさまメニューの陰に顔を隠す。
お、恐ろしいことこの上ない!
心の声は隠しておく。
何度かチラチラと彼女の視線を確認し、視線が外れたところで俺もコーヒーを——。
お冷を貰うことにした。
これだから無一文は辛い……。
—————そんな中
突然に店の扉が勢いよく開かれる。外の空気が一斉に流れ込む。
カランコロンといった音を置き去りにして、店内に入ってきた男——眼鏡に白のポロシャツ、黒いジーパンを穿いた二十後半の男が、何やら慌ただしい様子で、
「やっと部屋から出てきてくれたんですね、春夏冬先生!」
彼女——春夏冬 雅に迫る。
俺も含め客は皆、端のテーブル席に視線が集まる。
「八重咲さん、店内で大声を出さないで下さい。帰りますよ」
いかにも不機嫌そうな態度で彼女は返す。
見てくれは悪くはないが礼儀やら常識やらがかけている、いわゆる残念なイケメンというのはこういうのを言うのだろう。
しかし、男はさらに声を張り上げ、
「そ、それは困ります! 私は先生のために、わざわざこんな遠いところまで——」
「あーはいはい。帰りませんので落ち着いてください」
それを聞いてほっとしたのか、男は椅子に腰掛ける。
それと並行して、客たちの視線も元の位置に帰っていく。
ただ一人、俺という客を除いて……。
メニューで顔を隠しつつ、時折俺は様子を窺う。
お冷を運んできた店員が隣から怪訝の視線を向けてくるのが少し痛いが。
「今日お会いしたのは他でもありません。わかりますよね?」
「まぁ……」
「やはり、先生ほどの方が、先生ほどの才能を持った方が、辞めてしまうのはもったいないです」
「それはこの前も言われましたが、恥ずかしいので率直に言わないで下さい」
「いいえ、何度でも言いますとも。春夏冬先生、あなたには才能がある。あなたは人に感動を、笑顔を、喜びを届ける力がある。すべて事実——」
「やめてください、帰りますよ」
「……すみません、もうやめます」
そこは素直に聞くらしい。そして、今この立場でも彼女に主導権があるのだと悟る。
一体何の話なのかは皆目見当がつかないのだが。
「ですが、辞める前に休業といった形で通させてもらいます。ファンの方々も混乱するでしょうし……」
「それは別段構いませんが……私の気持ちは変わりませんよ?」
彼女は迷いなくはっきりと告げる。
無論、表情は動かない。
「そう、ですか……とても残念です。デビュー当時の先生は、絵を描くことに生きがいを感じていたように見受けられたのですが……」
絵を描く、こと……?
「そう、だったかもしれない……ですが、そうでなかったかもしれない。答えなんてないと思います。……でも、一つだけ物を言うとするなら、私が与えている感動や笑顔、そんなものはすべて——偽物です」
「偽物……?」
「はい。至って簡単なことです。笑ったことのない人間などが描く笑顔、そんなものなど所詮は偽にすぎない。飾りに過ぎない。そんな理屈です」
笑ったことが、ない……?
「そ、そうですか……よくわかりませんが、なんにせよ先生の考えは変わらないということですね?」
「……はい」
「……わかりました。それでも考えが変わるようでしたら、いつでもご連絡ください。心から連絡お待ちしていますので」
「……」
そう言い残し、男は店を後にする。
男の最後の言葉——それに彼女は応じなかった。
それが何を意味するのか、本当は何が言いたかったのか、なんとなくだが想像がついてしまう。
俺自身が何かを抱えるように。
ソルナ自身が何かを抱えるように。
また、彼女自身も居た堪れない何かを抱えているのだと。
そしてなにより、心に悪魔を抱えているのだと改めて気づかされた。
彼女が負った傷を、彼女が背負った苦しみを、彼女の中の偽りを。
それらの中から、もしくはすべてから、俺は彼女を救い出さなければならない。
届くだろうか、このちっぽけな両手で。
救えるだろうか、一度は大切を見捨てた俺などが。
……いいや違う、救うのだ。
決めたじゃないか。手を伸ばし救えるのならば、それを手放さないと。
彼女は言った。笑ったことがないと。
例えかもしれない。偽りかもしれない。
でなければ——事実。
俺はまだ、彼女を知らなすぎる。彼女について——春夏冬 雅について概ねほとんど知らない。
それならば、知ることから始めよう。
彼女も、そしてあいつも、手の届く場所にいるのなら救おう。
俺の第二の人生にハッピーエンドを加えよう。
思うや否や滲む水滴が決意を移す。
店の端を見れば、秋のない季節が悲しげに冷めたコーヒーを啜る。