プロローグⅡ
ソルナ、もといソルナ・リコルドとの運命的出会いは、今は昔、遠い過去の記憶などそんな大それたものではなく、遡ること三日前とつい最近の出来事になる。
その日——三日前、俺は果て無く広がる、白くて柔らかいまるで雲のような、綿あめみたいな、そんな不思議な世界でソルナと出会った。
出会い頭、俺はソルナの圧倒的美貌に見入ってしまい言葉こそ出なかったのだが、数秒後に投げ掛けてきた彼女の言葉。それにより、俺の儚い理想妄想は引き裂かれた。
彼女は数歩前進し、俺に近づくや否や真っ直ぐな視線を送り——
「面倒な奴だな、おのれは」
開口一番、これである。
もう少しオブラートに包むものかと、優しく語りかけてくるものかと、そう勝手に思い込んでいたのだが——甘さなんてない、辛口だった。
淡く期待を浮かべた自分を殴ってやりたいほどに。少しでも彼女に正統派ヒロイン的優しさを求めた自分を踏みつけたいほどに。いや、本当、いっそ動けなくなるくらいボコボコに。
そして、間を開けて彼女の第二声。
「名前など聞かなくてもよいのだが——まぁ一応、おのれの名前を聞いておくとしよう」
慢心と言うべきか、それともただ緊張してうまく話せていないのか、とにもかくにも彼女の言葉遣いには棘があり、またそれは、自意識過剰の現れにも見えた。
俺はどこか居た堪れない心持ちで、一応、唯々諾々として名乗る。
「……俺は雅人。【優雅】の雅に人と書いてまさとだ」
「雅人か…………おのれにはもったいないほど良き名前だな」
そんな、間の空いた言葉の暴力とともに、ソルナは言葉とは裏腹の、そのどこか懐かしそうな景色を眺める柔和な笑みで自身の右手を俺に向け差し伸べる。
何故だろうか。その瞬間、不思議にも確かな優しさをソルナの右手から感じた。
「願わくば手を取れ。おのれの未来を、過去を、一度は終えたはずの人生を変えたいならば」
冗談ではない、そんな眼差しを持ってソルナは言った。
「人生を、変える……」
実のところ、この世界がどこなのか、何故にここにいるのか、そんな疑問に俺はおおよその見当がついていた。
俺は三日前——この不思議な世界に来る前、生きていたのだ。
そう、生きていた。過去の記憶。
死因はまた別の機会に話すとして、とにもかくにも、三日前に死んだことは紛れもない事実である。
となれば、ここが天国か地獄であると考えるのはいたって普通。
……多分普通、だと思う。
実際、ここが地獄なのか、はたまた天国なのか、そんなものは今でもわからない。
ただ、一つ断言できることがあるならば、あの時——ソルナが手を差し伸べてくれた、あの時。手を取ったその瞬間、その刹那、ほんの数秒で——
夢物語は始まったのだ。
「三日前のあの日、我がおのれに願い出たこと——覚えているか?」
真剣な面立ちでソルナは問いを投げかける。
「愚問だな」
「そうか、ならば話は早い」
そう言って、ソルナは机上で手を横にスライドさせてみせる。
スライドさせた手の下からは、おそらく、いや、確実に地図と呼ぶべき物が半透明な状態で表示される。まるで、テレビの画面でも机上に現れたような、そんな感じで。
しかしまあ、今更驚くこともないのだが。
「つい先日だ。奴等の居場所が発覚した」
「……随分と遅かったな」
「……? 何故に怒る必要がある?」
てめぇーが三日前、一日あれば余裕だとかほざいたからだよ! この悪党が!
——なんて、言ったところで無意味か。
そう思い、すんで言葉を飲み込む。
「別に怒っちゃねーよ。それよか、その居場所は?」
「ん、座標から照らし合わせてだが」
ソルナはその位置を指で示す。
「おそらく————霞町」
「なっ⁉」
その言葉が俺の耳に届いたコンマ何秒後、俺は光の速さで席を立ち、驚きの表情でソルナに迫る。
顔と顔との距離、ざっと見積もりこぶし一個分。それほどまでの距離、驚き。
「おそらくそんな反応だと思っていたさ。なにせ、霞町はおのれの生まれ故郷らしいしな」
「づっ⁉」
近づきすぎたせいだろう、ソルナのデコピンが俺の額の中心部をしっかり射止める。
俺は反射的に席に座ると、ひりひりと痛む額に両手を当てる。
——概ねソルナの言う通り。霞町は俺の生まれ育った故郷であり、また、最愛の母の故郷でもあった。
しかし何故、ソルナにそのことが知られているのか……。
それに関して皆目見当がつかないのだが、それはそれとして——
「いや、でもなんで……」
「……奴等——悪魔は人の心の穴に宿る。そこに心の穴があるならば、そこに悪魔は宿る。自然の摂理と言ったはずだ」
一口二口と茶の湯を啜り、ソルナは真剣な視線を飛ばしてくる。
「そりゃそうだが……」
「なに、場所なんてものはどこでもあり得たことだ。いまさら何を悔もうが変わることはない。おのれが変えられるのは、おのれの人生だけだ」
もっともなことを言われ、俺は押し黙るほかなかった。
奴等——悪魔はそうだった。
場所なんて関係ない。そこに心が、穴があるならば……。
「そう、だったよな……。すまん。わかっちゃいたが、まだ整理しきれてなかったらしい」
「無理もない……が、無理をしろ。こんなこと言いたくはないが、おのれにはおのれの過去を早々に受け入れなければいけない責務がある。それがなされなければ——」
「皆まで言わなくていいさ。わかっている」
「……そうか」
申し訳なさそうであり、しかし、どこかほっとした表情でソルナはまた微笑む。
優しく、穏やかに。
——ソルナは人差し指でそっと机上をタップし、浮かび上がった何かのデータを俺の方へとスライドさせる。
「話を戻すが、ひとまずこれを見てくれ」
データには、見知らぬ少女の詳細が事細かく記載されていた。
「春夏冬 雅。【春夏秋冬】の秋だけをなくしてあきなし。下の名はおのれの字と同じ、【優雅】の雅でみやびと読む」
「……一応聞いておくが、きらきらネームとかでは——」
「本名だ」
「……了解」
俺の言葉を最後まで聞くことのない、完全なる即答がそこにはあった。
「野暮はいらんぞ」
「言われなくても。悪魔保持者……なんだろ?」
こくり、とソルナは首を縦に振る。
「断定はできないが、可能性は九十九パーセントと言ったところだ」
「何故断定しない……」
こんな時だけ細かい奴だ。
「まぁ、なんにせよ、おのれが今回担当する人物に変わりはない」
ソルナは当たり前のようにそう言う。
少し悲しげな表情で左手を壁に向け伸ばせば、空間がねじ曲がり、そこには俗に言うワープホールが生成された。
ここに入れ、と行動では命じているが、心ではその逆を言うように。
俺は唾を飲み込み、息を整え、心を落ち着かせる。
「……なぁ、雅人。おのれは大切なもののためなら別れを惜しまないか?」
覚悟を決め、席を立ち、ゆっくりと一歩踏み出した背後からは、ソルナにしてはどこか弱弱しい問いが投げかけられていた。
「……」
正直、まだその質問の深さが俺にはわからなかった。
だから、答えは出せない。
答えは——ない。
「……いや、忘れてくれ」
立ち上がり、ソルナは申し訳なさそうに言葉を紡ぐ。
そして、最短距離で俺のもとまで歩み寄ると、柔らかに、温かく、ソルナは俺を後ろから包み込んだ。
どこか、懐かしい香りもした気がした————気のせいだろうけど。
「……なんだよ」
「なんでもないさ、なんでも……」
今にも消息しそうな声色は、線となって空気に溶けていく。
暫くして、抱擁から解放された俺の手に奇妙な形状をした電子器具が手渡される。
「何かあれば連絡してくれ」
連絡と聞いて、おそらく耳への装着が普遍的と察し、俺はソルナから受け取った電子器具を右耳につける。操作方法などの詳細はないが……なんとかなるだろう。
——そして
「……約束、忘れるなよ」
そう言葉を残し、俺は自分の人生を変えるために、あいつに生きてもらうために、少し竦んだ足に力を込めて、第二の人生に足を踏み入れる。
背後から「あぁ、わかっているさ」と、穏やかな返事を受けて。
確然たる返事を受けて。
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