潜行開始
隣の潜行を行う部屋はもう一つの部屋と比べると広い面積を持っているはずなのだが実際に入るとこっちの部屋の方が狭く感じる。
と言っても特に何か仕掛けがあったするわけではない、単に潜行を行う際に使われる計測のための機器類が室内を圧迫しているために物理的に使える部分の面積が狭くなっているだけである。
そんな室内はゴテゴテとした雰囲気と圧迫感がひしめき合っているが藍川はこの部屋の雰囲気は割と好む方だった、施設内の洒落の効いたカフェテリアなどよりもこの部屋の方が落ち着くぐらいには。
部屋の雰囲気に落ち着きを感じつつ藍川はその部屋の中央に設置してある座席へと座る。
長時間座ることを前提としたその座席は人間工学に基づいた設計で体重の分散や肌触りなども考慮された造りとなっている、普段から座っていてもその快適性には感心せざるを得ない。
「藍川さん、どうぞ」
座席に座ったところで碧が座席と接続されている機器、外部インターフェースを藍川に手渡す、受け取った藍川は慣れた手つきでそれを頭部へと装着する。
ヘッドフォンとバイザーを組み合わせたような形状のその外部インターフェース、この機構によって装着者の精神が読み取られ、潜行空間へと送られる。
バイザー部分はサングラスの様に光を弱める構造となっており装着しているとただでさえモニターと天井の弱めの蛍光灯ぐらいしか光源のない室内はさらに暗く見える。
外部インターフェースを装着すると座席が倒れていき、藍川の体は完全に横となる。
背中にある柔らかな感触はいつも通りに藍川の体を支え、ゆったりとした気分で潜行の最中の藍川の肉体を支えてくれる。
そして碧は藍川の姿を見ながら機器類のチェックを進めていく。
室内に無数に設置された機器類の数値を瞬時にチェックした後、碧は藍川が横たわる座席の横に設置された「観測所」へと腰かける。
計六つのモニターが設置された観測所は数値の変化などをリアルタイムで表示している、まさにデータの観測を行う者のために用意されたスペースと言えるだろう。
腰かけた碧はそこに設置されたマイクロホンに向かって声を掛ける。
「――藍川さん、準備は良いですか?」
「大丈夫だ」
座席で横になっている藍川は碧の言葉にそう頷き返す。
外部インターフェースのヘッドフォン部分は高度な防音機構が備わっている、そのため付けている間はと外の声が聞こえない、よってここからの会話は全てマイクロホンを通しての会話となる。
何故そのような機構となっているのか、それは潜行の手順と関りがある為だ。
潜行は肉体と精神の切り離しを行う技術であり、その為には出来る限り外部刺激の遮断が重要とされている、外部インターフェースやゆったりとした座席も視覚、聴覚、触覚を物理的に少なくするため。
「――これより『潜行』の初期導入を始めます、もし導入途中で不快感などが生じたら……」
インターフェースに付けられている小型スピーカーをとおして碧が説明を始めるが、実際の所藍川はほとんど聞いていない、何度も潜行した藍川にとってはもう暗唱できるほどに聞き飽きた内容だからである。
「――では開始します」
説明を終えた碧はそう締めくくり、装置のスイッチを入れる。
ガコンという音と共に微妙に見えていた視界は完全に暗くなり藍川は完全に音も光も感じなくなる、その感覚が遮断されると同時にどことなく睡眠欲のような感覚がやってくる。
潜行の初期導入は精神を可能な限り平坦化させた状態にするところから始まる、今行っているのは言うなれば心の準備運動とでもいった所か。
頭部に装着した外部インターフェースからは神経系の興奮を抑える作用のある電波が流されそれによって睡魔にも似た感覚が全身を包み込む。
慣れていない者だと突然の感覚の遮断や精神状態の変化によって恐怖感や吐き気などを覚える者もいるが慣れた藍川にとってはこの感覚はむしろ心地良いものだ。
次第に強くなっていくまどろみに藍川は抗うことなく身を委ねていく。
そしてまどろみに意識を委ね、その眠りに誘うような感覚が完全に達成された瞬間。
――意識は加速する。
暗闇でのゆったりとした感覚から一転、目の前に広がるのは明るく加速する流れ、その流れははまるで光と同等の速度で移動している思えるほどの勢いで後方へと流れていく。
それは肉体と言う重りを無くした精神が別の場所へと移動する速度。
人間が生涯を賭けたしても現実では体験することが出来ない感覚が全身へと広がっていく。
これが『潜行』
肉体から精神を切り離し、その意識だけを別世界へと流す技術。
その加速の中で藍川はその光景を眺める。
始めは感動すら覚えたものだが今となっては慣れたものだ、それでもやはりじっくりと見れば美しいそう感じるのは変わらない。
そして体感にして数分程度続いた光速の流れは不意に途絶え、同時に周囲を流れていた光の流れもその動きを止める。
代わりに周囲に見えて来たのはただひたすら平坦で三百六十度見回しても何一つ見当たらない圧倒的な広さを持った場所『潜行空間』
その空間の中へとひときわ輝く物体が現れる。
明確な境界と呼べるようなものは存在せず、ともすれば周囲の明るさと混ざり合ってしまいそうであるがそれは確かに人の形を持つ。
この存在こそが潜行空間における藍川の姿、つまり彼の精神そのものである。
潜行空間はデータの集合体であり不変の形という物は存在しない、それでもそこへ行った潜行者は皆が口をそろえてこう言う。
「あそこは現実とは異なるもう一つの世界が確かに存在している」と。
その言葉が嘘か本当なのかは外部からは決して確認することは出来ない、外から見れば潜行空間は単なる膨大な量のデータの集まりに過ぎないからだ。
藍川自身もそのことは良く知っている、知っているうえで彼自身もまたその光景を何度も目にしているのだ。