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闇の中


 だがそのわずかに残った藍川への思いが碧に疑念を生み出した。


――あの存在が藍川さんになる……?

――ならばあの存在は藍川さんと同じ……?


 強い思念を持つ者が潜行空間では強い者、ならば考え方次第では――。


 僅かに残った思考で碧はその可能性にたどり着いた、だがそれが上手くいくかどうかは分からない。

 だが碧には一つだけ確信できる事がある、自分の持っているこの思いは誰にも負けないという自信だけは誰にも負けないという確信が。


 そして碧は実行する。

 僅かに残った自我を動かし碧は浸食によって黒い傷を残す両手を静かに広げる、それはまるで碧が全てをあきらめて敗北を受け入れたかのように藍川には思えたに違いない。


「あきらめたのかな? じゃあせめて一思いにやってあげる!」


 そう言いながら黒い藍川は跳ぶ。


 何時か見せた跳躍とほぼ同等の速度での跳躍は碧の元にたどり着くまでほんの数瞬、時間はほとんど存在しないほどの速さでありながらその右腕にはすでに禍々しい刃が形成されている藍川の持つ殺意その物を秘めた刃が一挙に碧の体を突き抜け、碧の精神は崩壊する。


――――そう思われた。


「なっ……何っ⁉」


 刃が止まった、碧の体に突き刺さるほんの少し手前のところでまる速度を吸収されたかのように刃の進行は食い止められた。

 藍川は何かが起きていると判断しその場を離れようとするが刃が動かない、まるで碧の体に刃が固定されてしまったかのように微動だにせず指令を解除して刃を飛散させることも出来ない。


「くっ……な、何が起きている⁉」


 藍川は一転して不可視の現象によってその身の動きを封じられている、その藍川の驚愕とは真逆に碧はその広げた手をゆっくりと正面へ伸ばしていく。


 その手が黒い藍川の体に触れた時、碧は言葉を紡ぎ始める。


「――藍川さん、私は貴方が好きです。」


 震えながら口にした自らの思い、藤堂碧という精神の根幹を支えている本物を開示する。


「たとえ殺人鬼になっても私は貴方を『受け入れます』」


 殺人鬼を消すには消去することが最善である、だが方法は一つではない要するに彼の精神から殺人鬼の精神が居なくなれば良い、碧は殺人鬼の精神を自らに取り込むことを選んだのだ。


「なっ……なにっ⁉」


 言葉を紡ぎ終わると同時に藍川を構成している漆黒の粒子が崩れ始め、その色を保ったまま碧の精神へと吸収されていく、当然その吸収した分だけ碧の精神は漆黒に染まり始める。


「うっぐ……」


 碧の中に流れ込んでくる「別の存在」それこそが殺人鬼の精神、これを全て受け入れれば彼の中から殺人鬼は消え、そして代わりに碧自身が殺人鬼になる。


「やっ、やめろ!」


 碧がどんどん漆黒に染まると同時にその分だけ崩壊していく藍川、手足から砂が崩れていくように精神を構成している粒子がボロボロと零れ落ち、黒い影は次第に消えていく。


 その光景はまさに藍川の精神を浄化していく光景。

 これで藍川の精神から殺人鬼の精神を消し去ることが出来る、それももう時間の問題であった。

 だがその漆黒を完全に吸収する瞬間、一部が切り離され碧の元から離れてしまう。


「っ!」

「は……ははは……残念だったね! もう少しで本当に君と一緒になる所だった……」


 そう言い残すとそのわずかな漆黒は黄金色の世界へと高速で消えていった、もうその姿を捕らえることは出来ない。


 目の前の存在が完全に藍川と同一化していないことが仇となったのだ、九割近く藍川になりかけていた部分は碧が受け入れることは出来たが残りのまだ殺人鬼のままであった部分は受け入れることが出来ず、碧自身が無意識に拒否してしまったのだ。


 これでは藍川隆二の精神に殺人鬼の精神が残ってしまう、このまま帰っても元の藍川には戻らないかもしれない。


「そんな……」


 最後の望みに賭けた碧の精神はすでに限界にきていた、藍川の中にあった殺人鬼の精神の九割をその身に宿した碧は既に同一化しかけ、碧自身が殺人鬼に囚われるのも時間の問題であった。


「もう……ダメなんですね……」


 自分が消える、その瞬間が訪れることを理解した碧は最後の時を迎える決心をした。

 思い起こされていくのは藍川との日々、彼を思いその為なら何でも出来た自分。

 そしてその為にここまで来た自分、自分と言う存在は藍川の為にあったと言っても過言ではない。

 彼の心に――残ること――は出来……。


――あれ?


 最後の瞬間が訪れようとしていた時、殺人鬼となり精神が歪んだ碧はそこで事実に気が付いてしまう。


――足りない。

――ない。

――あれがない。

――彼の記憶の中に――私がない。


 ここに来るまでの間に見て、体験してきた藍川隆二の記憶に藤堂碧はいなかった。

 彼の記憶にあったのは世界を修復するための意思とその為の正義、それだけ。

 そこには藤堂碧という存在はいなかった。


 藍川にとって藤堂碧という存在は背景でしかなかった。

 毎日顔を合わせていても朝ごはんを作っても一緒に食べても彼の中には残っていない、彼にとってはそれだけの出来事でしかなかった。


 あとから思い返すほどの大きさではなかった、碧との時間など藍川本人の持つ正義に塗りつぶされ霧散してしまったのだ。


――――――。


 もし普段の碧のままであったならばそれこそ彼らしい、などと言うことも出来たかもしれない。

 だが殺人鬼の心をその内側に宿し、精神が歪んだ碧には余りに残酷な事実となって現れる。

 その事実に気が付いた時――彼女の心は奪われた。


 碧という存在を支えていた思念は事実を知ると同時に弱まり、その弱さを補填するかのように殺人鬼の精神が力を増していく。

 碧が受け入れたがっていた藍川と酷似した精神、殺人鬼の藍川が碧の中に補填されていく。

 それに呼応するかのように彼女の中に渦巻いていく強大な感情、それはあらゆる方向へと飛び火し碧の全てを焼き払う。


――なぜ?

――どうして?

――私はこんなに思っているのに。

――私を見てくれなかった

――私は貴方だけを見ていたのに。


 そこから生じたのは「怒り」あらゆる感情を一瞬にして燃やしつくし、愛を憎しみへと変え歪んだ精神へと作り替えられていく。


「…………ダメ」


 殺人鬼として生まれ変わった碧の精神であったがそれでもほんの少しだけ形を残していた、それは藍川隆二という存在に対する思い。

 碧の精神は既に殺人鬼の精神によって浸食され、歪み果て原型を留めていない。


 それでも碧は「死んで」はいなかった、先のようにせめて藍川の事を思いながら安らかに自分と言う存在を終わらせようとしていた時とは明らかに違う、殺意に焼かれながらもそこには意思がある。


 たとえ何があったとしても「自分を見失わない」自分の中にまだ残っている藍川隆二に対する思いを形にして終わることを彼女は決断した。


「部長」


 碧が黒い藍川を取り込んだことによって外部との通信も回復したらしく、通達を行うとすぐに黒柳の声が聞こえて来る。


「――碧! よかった無事で……「強制帰還を」


 だが返答よりも前に碧は言い放つ。


「――何?」


 黒柳は明らかに戸惑っている、当然だ先ほどまで外部からは何も見えていなかったのだ沢山の疑問があるに違いない。

 だがそんなことにかまっている暇は碧にはない。


「早くっ!」

「――あ、ああ分かった」


 殺人鬼の精神と入り交じり湧き上がる殺意に浸食された碧は激高し、声を荒げる。

 その声を聞いた黒柳も何かしらの異常があったと判断したのか即座に退出を実行し、同時に潜行空間の碧の体は高速で外へと飛び出し始める。


 加速と平衡感覚の乱れによって全身を襲う強烈な吐き気、その不快感の嵐はとても口では説明できるような状態ではない。

 だがすでに碧の決意は完成している、その加速に身を委ね現実で行われる行為を反芻しながら意識を手放す。



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