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中の闇


「おっと、そうはさせないよ」


 だが碧の体が光に包まれた直後、行われるはずだった加速は発声せずそれどころか体を包む光も消えてしまう。


「――っ! な、何故退去できない!」

「――強制退去の指令が消えています……どうして……」


 強制退去の指令が消えても音声はまだ聞こえる、そこからは黒柳と朱里の声が聞こえていたがその声すらも次第に聞こえなくなっていく。


「碧っ! み……り……――――」


 部長の声も朱里の声も碧の元へは届かなくなった。


「ここは僕の中だ、余計な声を黙らせるぐらい簡単なんだよ」


 人間の精神、それは脳と言う名のファイアウォールで囲まれ、精神と言う名の潜行空間で出来ている、ならばその人間の意思によってその内部を制御することが出来たとしても不思議ではない。


「余計な事を話されても困るからね、残念だけど逃がすわけにはいかない」


 碧はもうここから出ることは出来ない、目の前の存在の許しがあれば出られるがそんな事を行うわけはない。

 ならば碧は何をするべきなのか。


「今はまだ彼の精神が邪魔してるけどもうすぐ彼の精神よりも僕の方が上回る、そうなったらもうこの体は僕の物だ」


 間もなく目の前の殺人鬼は藍川の精神を殺し藍川の体を得て現実に戻ってしまう、そうさせないための選択肢はただ一つ。


「私が……あなたを消す……」


 この場で殺人鬼の精神を構成している感情を消去し、殺人鬼の精神を殺す。

 そうすれば囚われている藍川は元に戻り自分もこの場所から脱出することが出来る、だがそれは余りにも不可能に近い方法と言えるものだ。


「出来るの? 君、観測者でしょ? 今の僕はランキング一位の藍川隆二とほぼ同じ存在だ、どう考えても勝てるわけないと思うけど」


 目の前にいるのは殺意という強力な感情を思念として生きる存在、強い思念を持つ者が潜行空間では強い者であると言う原則に従うのであれば他者の精神に与える影響力は計り知れないほどに強いという事になる。


 そんな強大な思念を持つ者が藍川隆二という神がかり的な潜行技術を持つ者と同一化しかけている、それはまさに速度と攻撃力の双方を極め切った存在を併せ持っているに等しい。


「うるさいっ! 貴方は藍川さんじゃない!」


 目の前の藍川にそう言い切った碧の右手には光が集まり始め形が作られていく。

 碧の手に現れたのは光る短刀、それは長さも大きさもなく弱弱しい物であったがその鋭利な形状は殺人鬼を排除するという碧の意思を確かに体現している。


「っ!」


 短刀を形成した碧は短い呼吸と共に踏み込む、観測者とはいえ《第一支部》に所属している以上一般人と比べれば十二分な技術を碧は持っている。

 高速で接近した碧はその漆黒の藍川の体に光る刃を差し込む、通常であればその速度は十分に通用するレベルであった。


 だが刃を差し込んだ瞬間短刀は光を失い手中から零れていく、その崩壊を横目に見た碧はすぐに左手に刃を形成しようとするがそれよりも早く藍川の形成が始まる。


――止まって見えるよ。


 その言葉と共に藍川の右手には粒子が集まっていく、周囲に存在する雲海から湧き出る黄金色の粒子は藍川の右手に集まると同時に明るさを失い輝きはくすみ黒ずんでいく。


 そして右手に現れたのは碧と同じく刃の形状をした物体――だがその大きさは段違いだった。


 まるで右腕全体が刃に変形したかのようなその巨大な刀身は殺人鬼の持つ他者を害するための殺意その物を具現化したかのような禍々しい形状をしていた。


 その刃が間髪入れずに碧の方へと振るわれる。

 碧は本能的にその場から飛びのくように離れるが躱し切れずに漆黒の刃が碧の精神に掠る。

 もし単なる一般人程度の技術しか持っていなかったならばその一瞬の掠りであっても瞬時に

全身の粒子を浸食され殺人鬼の意思に取り込まれていただろう。


 だが碧は観測者であるにも関わらず十二分に高い潜行技術を持っていた、それによって精神は完全に浸食されることはなく何とか防衛に成功したのだ。

 それでも刃が触れた部分にはその爪痕を残すように黒い粒子が碧の体に残されていた。


「ひっ……!」


 黒い残痕が残る腕を認識した碧はそこから這い上がってくる感情に恐怖する。

 殺人鬼の精神が自分の中にいる、その現実では言葉にできない感覚がまさに自分の体で起きているのだ、さらにそこから蝕むように絶え間なく湧き上がる不快感は言葉にすら出来ない。


「あはは、面白いね! 怖がってるのが『視える』よ」


 碧の体を構成している粒子の塊は不安定に揺れ始めている、恐怖と言う感情が精神に浸食し碧の意思を揺らげているのだ。


「いいね……本当に良い…………」


 碧の恐怖する姿を見た殺人鬼は再び刃を形成するとその刃を振るう、するとその軌跡に沿って再び粒子が集まり光を失って黒く染まる。

 次に形成されたのは黒い衝撃波、禍々しい刃の形状をそのまま持った黒波は恐るべき速度で空間中を飛来し碧の方へと向かってくる。


 腕から湧き上がる恐怖に囚われた碧は反応が遅れその場から動けない、だがその黒波は碧を直撃する事無く右足の先端部分ギリギリを通過していった、それは明らかにわざと外した物であるという事が見える。

 だが、当たらずともその余波は碧の左足に先ほどと同様の残痕を残し再び浸食を開始する。


「嫌っ、嫌嫌嫌あああっ!!!」


 碧の手足から這い上がる恐怖。

 それは未知の感覚であるにも関わらず全身を動かせなくなるほどに心を蝕んでいく。


「ふふっ……」


 恐怖に悶える碧の姿を見ながらサディスティックに笑う藍川、その姿はまさに他者を苦しませ愉悦に浸る殺人鬼の姿そのものであった。

 碧が恐怖する姿をかがめながら藍川は再び攻撃を仕掛けていく。

 藍川が腕を振るとその腕の通過した空間部分に黒い球体が現れる。


「――往け。」


 そして藍川の声が短く響いた瞬間、その命令に呼応するかのように球体が碧の方へと飛来する、飛来する途中で形を変えたその球体は碧の体に到達する直前には鋭利な刃と化しそのまま碧の腹部に突き刺さる。


「あ………あ、ああ、あああああああああああああああああああああっ!!!!!!」


 恐怖、嫌悪、不快、気持ち悪い、異様、背筋が凍る。


 ありとあらゆる忌避の感情を一つに合わせ凝縮したかのような感覚が碧の中へと流れ込む。

 それに抗うすべはない、藍川隆二の神がかり的な技術によって送り込まれた強大な負の感情は碧の精神を浸食し尽す。


 その浸食を表すように碧の精神は徐々に黒く染まり始める、その光景を見つめる藍川は言う。


「君もいいんじゃないか? 今の僕は藍川隆二だ、愛する人に殺されるなら本望だろう?」

「貴方が、藍川……さん」


 その言葉に碧は一瞬心を奪われる、自分に流れ込んでくるのは藍川と一つになりかけている精神、もし抵抗するのを止めたのならば精神は消滅し指令を失った碧を作っている粒子は藍川の世界へと消えることとなる。


――それも……いいかも……。


 全身を浸食する殺人鬼の精神から与えられる恐怖からの苦しみから解放されたい、碧は抵抗するのを止めあきらめることを選択しかけていた。


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