藍川の中
「碧……」
「…………」
その様子を黒柳と朱里が見守る、黒柳は今回の一軒の全ての責任者として立場を全うする事を条件に許可を下ろした。
朱里は単に友人としてその場で起きている事を見せて欲しいと強く申し立て同席が認められた。
もし今回の一軒で重大な人的被害などが出たらそれは黒柳の失敗として取られる事となる、だが既にこれからの事はどうでも良い、と黒柳は思うことにしていた。
管理職に付いて以降、忘れていた感覚を取り戻していた黒柳はこの一軒を見届けることが自分の使命だと確信していた。
黒柳も元潜行捜査官であり、優秀と評されるだけの知識と経験を兼ね備えている、当然潜行に慣れていない者がどうなるのかの過程も十分に理解している。
精神そのものに他者の精神を送り込む、それが現実に出来たとしてどうなるかの予想などは誰にも分らない。
外からは人間の精神をデータとして見てそこに別の物体が入っているという状況の確認はできる、と言うが何が起きているのか、その本物知ることが出来るのは実際に「潜行」したものだけだ。
観測することもサポートすることも出来るが出来るのはそこまでだ、あとは碧本人がどうにかするのを見守るだけ。
加速する世界の中で不快感と格闘していた碧は突如として静寂の空間へと放り出された、加速が突如として終了し、全身を包み込んでいた不快感もなくなり落ち着きを取り戻す。
――!
碧の目に見えたのはただひたすらに広がる雲のような光景、養成所時代に初めて潜行空間へ入った時に感じた緑色の正方形が幾重にも重なった光景とは全く違う世界がそこに広がっていた。
「――碧、聞こえるか」
今まで見たことのない光景に目を奪われている碧の脳内に黒柳の声が聞こえて来る。
「はい……聞こえます」
「――感覚はどうだ?」
「不思議です……まるで自分じゃないみたい……」
「――碧……? 大丈夫か?」
碧の返答は酷く夢見心地のように柔らかな物だった、「潜行」を行う前、藍川を失い人が変わったかのように冷静に現状の打破を目的としていた彼女の様子が見られなくなっている。
だからと言って以前の藍川と過ごしていた頃とも違う、それはまるで本当に欲しかったものを見つけた喜びのようであった。
「凄い……これが、あの人の中……」
「――碧?」
「綺麗……」
空間に広がる粒子に碧は手を伸ばす、するとまるで自分を包み込むかのような暖かな感覚が全身に広がっていく、それはまるで今まで求めていたのに埋まらなかった部分がぴったりと埋め合わさっていくかの様。
碧はその多幸感を求め両手で粒子を抱えこむ。
「――っ……!」
それは決して強いものではない、だがいつまでも触れていたくなるような感覚。
「――碧!」
自分が本当に望む物をその通りにしてくれるような。
自分の弱い部分を受け止めてくれる……
「おい! 碧ッ!」
「……はっはい! 何でしょうか?」
黒柳が怒声を浴びせるとそれに驚いた碧は反射的にその場から飛びのく、すると抱え込んでいた粒子は塵散りになり消えていった。
そして帰って来た声からは先ほどまでの呆けていたような口調は消え、普段の碧に戻っていた。
それにひとまず安心した黒柳であったがつい先ほどまで碧は精神が消滅しかけていた、現実で言う死と同一の状態になりかけていたのだ、それがどれほどの物であったのか説明するまでもない。
「碧、『自分を見失うな』忘れるな、お前はお前だ」
説明する暇も惜しい黒柳はただ、一言こう言った。
「はっはい」
碧の返事には黒柳の怒声にまだ驚いている様子であったがその様子からは先ほど自分が死にかけていたのが分かっている様子はなかった。
誰も知る由はないが他人の精神の中はただの潜行空間と比べて、「自身の意思を保つ」という事が重要な意味を持つ。
自分を見失う、目的を忘れる、周囲に身を任せる、自分以外の存在に心を奪われた瞬間、周囲の粒子に浸食される。
碧は藍川に惚れ込んでいる、もし藍川の意識に身を委ねたら碧は心から望んだ終わり方で消える。
だが、それは碧彼女ならば分かるかもしれないという可能性を秘めているという事でもある彼女は藍川を主観的な意味で良く知っているからだ。
「潜行」が主観によって全てを感知するのであれば藍川と言う存在そのものを形成している者を最も藍川を知る存在が見る事で何が起きているのかを判別できる。
藤堂碧は最も脆弱な存在であると同時に、最も有効な存在なのだ
自分を見失うな、その言葉を反芻しながら緑はその空間を進んでいく、驚くほどに静寂な世界、聞こえるのは自分が動くたびに足元の粒子が舞い散る音だけ。
今、藤堂碧は、藍川隆二と一つになっている。
彼女が見ているのは藍川の世界、藍川にとっての世界の姿。
雲海を進んでいた碧はその粒子の光景を眺めていたがふと気が付く、一面の雲海の様だが良く見るとその中に形があったのだ。
潜行空間内の粒子は潜行者が手を加えない限り形を成すことはない、ならば目の前にあるこの不確定ながら形を持った物は何なのか。




