汚染(2)
それを聞いた黒柳は一瞬の驚きの後、顔をしかめる、それも当然の事だ。
理論上は確かに可能と言える。
「潜行」とは人間の精神をデータ化して潜行空間へ移す現象の事だ、そこでは機器に表示される数値も人間の精神も記号の羅列として同じように扱われている、だからこそ「潜行」を用いたデータの取引なども可能となっているのだ。
そして潜行空間においては全ての存在が粒子によって形成されている、当然そこにいる潜行者の精神も元を辿れば潜行空間中に存在している『自由粒子』であり。
潜行者の人型は精神中の思念や感情を指令として集まった『凝固粒子』と言える。
潜行空間も人間の精神も元を辿れば同列。
ならば人間の精神に「潜行」すれば、そこに存在する粒子はその人間という存在を作っているものそのものとなる。
そこへ入った者はその人間たる理由の思念を全感覚で「体験」する事となる。
つまり他人の感情を余すことなく知ることが出来る。
碧が言っているのはそういう事。
だが、それはあくまでも理論上の話だ、現実に行えるかどうかは定かではない。
そもそも「潜行」という技術そのものが未だにわからないブラックボックスの部分が多いという事実もある。
潜行空間は外部から見ればデータの集まりにしか過ぎないにも関わらず、潜行し入った人間が潜行空間は粒子で構成されていると知覚する理由すら分かっていない。
「碧……焦る気持ちは分かるがとにかく落ち着け、まずは過去に観測されたデータと照らしあわせて……」
黒柳は優秀だ、目先の損得ではなく長期的な目線で物事を考える、理論上可能なだけの不特定因子の多い物よりも確実性の高い物を選択する。
それは彼自身、藍川の身を案じているからにほかならない。
他人の精神に「潜行」するという現象は誰もやったことがない、だが理論上可能という事実は示されている、実行しないのは当然ながら背景にも理論上起こり得る他の可能性も示唆されているからだ。
他人の精神が本当に潜行空間と同様の状態であったと理論上言えたとしてもそこが「本当に」同じかどうかは入った者にしか分からない、そこで潜行空間と同様の方式が通用するのか。
他人の精神内に別の人間の精神が入った時何が起こるのか。
入られた側に何が起こり、入った側に何が起こるのか、それは誰にも分からない。
その膨大な不確定要素は多くの人間を足踏みさせてきた、一歩踏み出さなければ進まないと言われればそれまでだがそこまでする理由がなかったのだから放置されてきたようなものだ。
そして今、藍川の精神を確認する方法の一つとしてその一歩を踏み出す本格的な理由が目の前に打ち出された。
それでも黒柳の性格上、実際に藍川に入る潜行者と藍川自身への損害が起きる可能性から踏み出さない選択をしたのは決して間違ってはいない。
だが、碧はその一歩を踏み出す決心をすでに始めていた。
「部長、やるべきです、過去を見ていても始まりません、藍川さんに何が起こったのか本物を知るためには絶対に必要です」
そう語る碧はまるで人が変わったかのように饒舌に話す、その変化には黒柳ですら気圧されつつあるほどだ。
「碧……良いか、藍川に何があったのか知りたいのは俺だって山々だ、だがそもそもその机上の空論が成功するとは限らないそれはお前も知っているだろう?」
黒柳は諭すようにそう言うが碧は一向に引き下がろうとはしない。
「どうしてですか、藍川さんほどの人を元に戻せる可能性があるんですよ!」
「……良いか、潜行するという事はその潜行者本人の方に何かしらの障害が起きる可能性だってあるんだ、これは藍川本人だけの問題じゃない、潜行捜査官という組織全体の状況も踏まえた上での決断が必要な話なんだ」
技術に長けた潜行者の数は多くはない、潜行者そのものの資格が取るのが非常に困難なうえに何度も言ったように「潜行」そのものが半ばブラックボックス化している。
よっぽどの信念でも持っていなければそこに命を預ける潜行捜査官という職業に付こうとするものはいないだろう。
そんな貴重な潜行者の犠牲が起きる可能性という背景がある以上、そう簡単には決められない、いっそこの際藍川一人だけで済ませた方が良いとも言えるかもしれない。
そんな非情だが正しい現実を見なければならない、黒柳は碧にそう伝えたかった。
だが碧は本気だった。
「私が見てきます、藍川さんに何があったのか」
その言葉の意味は言うまでもなかった。
「潜行者」ではない「観測者」の彼女が藍川の中に入ると言い出したのだ、それがどれほど無茶な行為なのか説明すればきりがない。
観測者も潜行者と同じ養成所から排出されるため、一通りの知識や技術などを学んではいる。
だが観測者は潜行空間における実体験の部分が圧倒的に不足しているのだ。
優秀なものが潜行者になり、足切りを受けたものが観測者になるという事。
優秀な者しか潜行出来ないため損害を考慮しなければならないのなら、優秀ではない者が先行すればいい碧はそう言っているのだ。
「碧……! 何を言っている、お前は自分を犠牲にするつもりか?」
「犠牲じゃありません、私は一歩進みたいだけです」
「……どっちにしてもダメだ、確信がなければ許可できない」
その確信は誰かが潜行しなければ恐らく永遠に分からない、それでも黒柳はそれを認めるわけにはいかなかった。
「私は藍川さんの観測者です、彼の事は私が一番知っています」
「だがやはり……」
一向に引き下がろうとしない碧をどうにか諭すための言葉を黒柳は模索しようとしていたその時である。




