碧の心
彼が告げた真実、それはその場にいる者全員に混乱を巻き起こしていく、養成所をトップで卒業し現在の施設において最大の功績を残しているものの身に起きたというのだから。
会議室内が混乱を極める中、黒柳はさらに続けていく。
「ですが……まだそれらが確定したという保証もありません、今現在も彼の意識は回復していません、今後は彼らが意識を取り戻すことを待ってから更なる検討が必要であると考えられます」
そういって黒柳は説明を終えた、会議室内の混乱はさらに深まり収集が付かなくなりつつある。
藍川隆二はどのような攻撃を受けたのか。
同じような事件が今後発生する可能性は。
仮に攻撃を受けていた場合その後遺症などはどのようなものなのか。
それらの様々な意見が飛び交う中、黙って話を聞いていた老人がその重い口を開く。
「皆、一旦落ち着こう、今はわからないことが多すぎる、まずは藍川君の意識が戻る事を願うしかない、その後この技術について徹底的な調査を行い、詳細の解明に全力を尽くしたいと私は考えている」
責任者が告げたその言葉に混乱は一時の落ち着きを見せ、会議はその混沌とした空気の中で終了となった。
「碧、大丈夫か?」
「部長……はい、大丈夫です……」
会議は終了し皆が席を立っていく中、ぼんやりとしたまま座っていた緑に黒柳は話しかける。
碧は口では大丈夫と言っているもののその顔色は悪く、今にも倒れそうな状態だ。
「とにかく、今出来ることは何もないお前らも帰って休め」
黒柳の言葉は碧だけではなく、隣の青島、朱里にも掛けられたものだ。
碧はあの後、黒柳や朱里と共にデータの収集を全力で行いそのままの体で会議に出ていたのだ、肉体的にも精神的にも限界が近いほどに披露しているのは間違いない。
因みに青島は予想通り盛大に嘔吐しその後、目撃証言を取りそのままだ、彼の方も疲労は免れていないはずだ。
「藍川の事が心配なのも分かる、だがお前自身の体も立派に大切なものなんだ、藍川が起きた時に疲労困憊では持たないぞ」
「そう……ですよね、そうです」
「ああ……そうだ」
そういって碧を帰らせる、だがきっと分かっているのだろう、これが簡単に解決するような問題ではないという事は。
碧も「潜行」についての知識は十分に備えており、決して素人ではないこの異常事態に対する対処法がいかに困難を極めるかぐらいは理解しているだろう、かく言う自分もどうすればいいのか分からない。
自分は「潜行」していたわけではないあの時電脳世界で何が起きていたのか知るすべはない。
今はただ、藍川が目を覚ますことを祈るだけだ。
ふらふらとした足取りで施設を出た碧はそのままの覚束ない足取りで帰路へと付いた。
全身が鉛になったような疲れがのしかかり、まさしく疲労困憊といった状態で歩く道は近いはずの社員寮さえも遠い道のりの様に感じる。
朱里が付き添うとも言ってくれたが、彼女は寮ではなく近くにある自宅から通勤している、寮とは逆方向であり、わざわざ遠回りをさせるのは憚れる。
一人で歩き、階段を上り、部屋の前まで到着する、こういうときの個人端末は便利だ、取り出す必要も鍵穴に入れて回す必要もない。
意外なところで活躍を見せる個人情報端末にちょっぴり感謝しつつ部屋に入る。
部屋の中はそれなりに片付いており、内装も女の子といった雰囲気が随所に感じられる。
インテリアの類もピンクや白を基調としたかわいらしさや清潔感を重視した物が多くデザイン性に乏しい寮の一室であってもそこには確かな女性の住む空間が現れていた。
だが、今の碧にとっては無駄に思案して購入したクッションも見栄えのために買ったインテリアも目に映ることはない。
「今日は早めに休みましょう……」
そう決めた碧は取りあえずシャワーを浴びることにする、あちこちの資料を探したりその為に多くの書類を運び出したりしたおかげで全身から疲れと汗が出ている。
いくら疲れてしているからと言ってそれを放っておくわけにはいかない。
更衣室に入って服を脱ごうとしてふっと鏡を見ると白衣を着たままだったことに気が付く、どうやら制服として着ている白衣も着たまま帰ってきてしまった。
施設を出る時も、帰宅のために歩いている時も気が付かなかったらしい。
「ふふっ……」
自分がどれだけ混乱しているのかを思い知らされ自嘲気味に笑うと服と一緒にそれらもまとめて洗濯機に放り込む。
浴室に入り、シャワーを浴びるために管理システムに手を伸ばす。
寮に付いている浴室はそれなりに高性能のものであり、使用している人間の好みや使う時間帯などに応じて自動的にシャワーの温度などを調節してくれる。
ノズルを壁に掛けたまま頭から湯を被る、流れるお湯はいつも使っているのと同じ温度で変わらずに流れ続ける。
そのお湯を浴びていると少しずつ体が温まっていき、体の芯まで冷えていたような感覚も少しずつ元に戻っていく。
感覚は明瞭になってきている、だが意識は未だに不明瞭なままだ。
長く付き添ってきた人が突然いなくなってしまったかのような感覚は碧に悲しみの感情を芽生えさせる。
それなのに涙や体の震えは全く出てこない、まるで私まで自分と言う存在から離れて客観的に世界を見ているかのように思えてくる。
それなりの時間シャワーを浴びた私は着替えようとするが当然着替えもバスタオルも用意していなかった。
頭から足先までずぶ濡れのまま部屋まで戻りタオルと着替えを持ってくる、部屋の中には碧の足跡と落ちた水の雫が点々と垂れた。
着替えて髪を乾かす、暖かい風が顔に吹き付けられ、まだ湿り気を帯びている髪が揺れる。
鏡を通して見ている碧の姿は本当に疲れ切っているように見える、施設にいる時は忙しさや緊迫した空気に充てられていたせいもあるのか家に帰ってきてからはむしろ施設にいた時よりも疲れているような気がする。
髪を乾かした碧は、そのままベッドに倒れこむ。
もぞもぞと中に潜り込んだため、綺麗にしておいたシーツも崩れるが今更直す気にもなれない。
そのまま眠ろうとするがなかなか寝付けない、ベッドの中はひんやりと冷たくそれがまるで自分から希望を奪っていくかのように思えるほどだ。
「んっ……」
枕元にあったクッションに手を伸ばして取り、それを抱きかかえるようにする。
柔らかなクッションは体温を蓄え、先ほどよりは寒さを感じなくなったがそれでも柔らかいだけのクッションでは温もりは感じられない。
「大丈夫……ですよ……ね」
誰に言ったというわけでもないその独り言をつぶやきながら目を閉じる。
布団に包まっていれば自然と暖かさは増してくる、だがシャワーを浴びても布団にくるまっても心の奥底から湧いてくる冷たい感覚はいつまで経っても温かくはならなかった。




