異変
その光景を最も近くで見ていたのは無論、藍川に他ならない。
彼はほぼゼロ距離に等しい位置でその光景を見た。
『固定粒子』が消え去り全身を包み込んでいた不快感が消えた瞬間、藍川の手から形成され、敵を縛り付けていた光縄は即座に崩れ始めていく。
藍川は反射的に再び形成しようとするがその指令ごと崩壊するが如く再生されることはない。人間の限界に近い速度にまで達しているはずの藍川の技術よりも早い速度で何かが藍川の精神を浸食していく。
目の前で起きる未知の現象に危機を感じた藍川はその場を素早く離れるべく跳躍しようとするがそれよりも早く変質した存在が藍川の全身を取り囲む。
「こ……れはっ……!」
原理は分からないが何かしらのトラップの一種と判断した藍川は逃走を諦め防御に徹しようとするがその思考ごと塗りつぶされるかのように無慈悲に藍川の全身を取り囲んでいく。
それは今まで感じたことのない未知の感覚であった、ハッキングによる攻撃を受けた時に感じるような五感全てを併せ持った不快感のようなものは一切感じないにも関わらず全身を動かせなくなっていく。
「……っぁ」
次第に意識を失うように全身の感覚が失われていく、それはまるで潜行を終える時のまどろみの様に何処か心地よいとも言える感覚。
「――!」
最後に藍川の脳内に誰かの声が聞こえたような気もするがすでに感覚は失われつつあり誰の声かは判断できなかった、それの思考を最後に藍川は意識を手放した。
潜行空間で起きた出来事は潜行者の主観でしかわからない、よってこの光景を直接見たのは青島一人、彼はそこで全てを見ていた。
「あ、藍川……?」
青島は藍川が接近してから捕獲するまでの全ての光景を余すことなく見ていた、その後に起きた異常事態も含めて。
藍川が光縄で敵を捕獲したと遠目でも確信した瞬間、敵の人型を形成している粒子が縛り付けている光縄ごと瞬く間に霧散していくのを青島は見た。
そしてそれと同時に周囲の風景が元に戻り青島が普段見ている潜行空間の光景、白い幾何学模様のような物体が浮かぶ場所へと戻っていた。
そして元に戻った安堵を味わう暇もなく、それは始まった。
藍川が捕獲した人型を貫く様にその内部から湧き出したのは周囲の粒子とは全く異なる感覚を生み出す『黒い粒子』それは光り輝く潜行空間の中でただ一つ黒い色を持つ存在として青島の感覚に焼き付く。
それが何なのか青島が理解する間もなく一瞬にして捕獲した人型は闇に飲まれるように崩壊し、広がる黒い霧は瞬時に藍川の体までも取り囲んだ。
黒い霧が藍川の体を包んでいたのはほんの一瞬、次の瞬間には黒い霧は霧散しその漆黒の姿を消滅させ、後には動かなくなった藍川の精神だけが残っていた。
「強制退去だ! 朱里! 碧に藍川の強制退去をさせろ!」
その異常事態に出くわせした青島は退避行動を最優先に考え通達実行し、その声を放つと同時に藍川は光の筋となって飛翔していった。
「…………」
一人残った青島はほんの一瞬の出来事でそれを遠目から見ていただけにも関わらずただ茫然と立ち尽くす。
光の中から生まれた黒は全身の感覚を通して青島へと届いた、直接触れることなく伝わった不快感だけでも青島には巨大な残影として感覚に残された。
「……青島、貴方も戻ってきて」
青島の脳内に相棒の声が聞こえる。
「ああ、その前になんか袋でも用意しといてくれ」
「なんで?」
「吐きそうだ」
潜行空間の不快感は精神が抜け出ている現実の体には全く作用しない、しかし逆に言えば潜行空間での不快感を持ったまま体に戻れば当然予想通りの反応が現れる。
わかった、と声が聞こえ青島は光の筋となって飛翔していく。
終わった後吐くとか養成所に入ってすぐの頃を思い出す、そう思いつつも全身を包む不快感は全く収まる気配を見せないまま青島は睡魔に身を委ね現実へと戻っていった。
外側で見ていた者達の全てがその光景、人間の精神が崩壊しその内部から全く別のデータが出現したという状況に対し驚愕していた。
そのデータはほんの一瞬であったが施設内の機器に確かに記録された、その異常事態が終わると同時に青島からの通達が入りそれを受けた総監督の黒柳が碧に通達する。
「碧! 藍川を戻せ!」
内容を理解するよりも早く碧は藍川の精神を帰還させる。
「――藍川さん! 藍川さん!」
碧は藍川に通達を行うがその呼びかけに答えることはなかった。
潜行空間に黒い影が生まれる光景、それは「潜行」という技術が開発されて以降、都市伝説めいて囁かれていたある現象。
「色彩を持った粒子を見た」
その存在が明確に観測された瞬間であった。




