捜査開始
――すると再びあの感覚が始まる。
範囲外に一歩踏み出した瞬間にその体は爆発的に加速する、先ほどの踏み込みも体感的にはかなりの速度の様に思えたがこの感覚に比べればあまりにも遅い。
この感覚は潜行空間の結節点における場所で起きる現象、精神を潜行空間に送る時やファイアウォールの中と外を移動するときなど様々な場所で発生する。
例えるなら現実でインターネットを使用するときに多用するリンク、ここを通る時にこの加速は発生する。
これらを通過するたびに藍川は、人間の精神の複雑さを感じていた。
現実世界においては文字の羅列とそれによって構成されるプログラムという単なるデータに過ぎないものが潜行を行う事によってその一つ一つが明確なものとして感じられる。
目という単なる一器官だけでは文字にしか見えなくても、精神そのもので見れば確実に現実に存在するもの以上に複雑なものとして感じ取っている。
潜行において感じるこれらの感覚はデータとしては記録されているものの現実で起こるのは単なる通過したという痕跡、履歴のみ。
その通過中に何が起きているのかは「潜行者」本人にしかわからない。
その「感覚」が何に由来する物なのかは未だに解明されていない。
ここでの光景は「潜行者」によって感じたものだけが主観的記録として残される。
それでも藍川はこれが何なのか説明は出来なくても本能的に分かるような気がした。
――これは人間の精神その物が見た光景。
視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚などといった限定的なものではなく、それを全て兼ね備えた上で全てを超越した感覚そのものの光景。
それこそが人間という枠組みを取り払った、その存在だけに見えている本物の光景。
それこそが「潜行」の本質。
だからこそ、今の状態は脆弱そのものとも言える。
現実では肉体と言う物によって保護されている精神が今は完全に露出している。
それは何かしらの危害が加わればそのまま百パーセント伝わるという事、この危害というものは感覚によってなされるものも含まれる。
「潜行者」はそのような場所で生きる者達なのだ。
煌びやかな感覚を全身で受けながらその加速を抜けた藍川はついに保護の行き届いていない潜行空間に降り立つ。
見た目には先ほどの場所とは何も変わらない、だがここは既に最悪死の危険すらもある場所なのだ、踏み入ることが出来るのは限られた存在のみ
「碧、外に出たぞ」
「――はい、場所を補足しました、ここからは常に周囲の状況把握に務めて下さい」
「わかっている」
そういって藍川は周囲の探索を始める。
藍川の仕事は大きく分けて二つだ、一つは先日行っていたような電脳空間に逃げた犯罪者の捕獲、そしてもう一つが治安維持作業。
治安維持と言えば聞こえはいいが、要するに見回りをしながら潜行空間の破損や工作の跡などが見つかれば修復するという非常に地味なものだ。
そして治安維持作業の方が圧倒的に行っている時間は長い、藍川は犯人捕獲の高い技術を持っているためそちらに動員されることも多いのだが一番多かったとしても月の半分以上は治安維持作業を行っているだろう。
その単調な作業を開始するために藍川が周囲の探索を始めようとしたその時。
藍川の感覚に遥か彼方から接近してくる一筋の光が捉えられる、それは紛れもなくこちらに向かって真っすぐと飛来してくる。
「……またか」
それは感覚的にもかなりの速度、そのまま激突すれば何かしらの影響を受ける気配は明らかだが、藍川は特に焦る様子もなくその光に向かって掌を広げる、そしてその掌と向かってきた光が衝突する。
すると藍川の掌に衝突した光はその掌に吸収されるように一瞬で消滅し、光線を受け止めた藍川は特に何事もなかったかのように立っていた。
藍川に向かってきた一筋の光、これは保護を受けていない場所で最も良く見られる「無作為攻撃」である。
保護が行われていない場所では世界中に存在する潜行空間で犯罪行為を行う者達、いわゆるハッカーがパーソナルスペースと称した縄張りのようなものを持っている。
もちろんそれは何かによって決められているという物ではなくハッカーコミュニティにおける自分の地位を示すためのステータスのようなものだ。
そしてその領地内には入って来た存在に対して自動的に先制攻撃を仕掛けるトラップが仕掛けられていることがある。
それが今行われた無作為攻撃である、これは潜行空間に自分以外の存在を立ち入らせないというプログラムを設置することでその中に入った存在を無条件で叩くという物だ。
藍川の潜行においては今の様に光の矢のようなものが飛んでくる感覚として伝わる。
その光の矢をもろに受ければ藍川という存在そのものにダメージが及ぶ、つまり精神の一部に被害が出るという事だ。
現在の潜行空間にはこのようなトラップが無数に仕掛けられているがために一般人が潜行を行うのは危険となっているのだ。




