かわいい幼馴染がいるA君の場合
仲が良くてしかも美少女の幼馴染がいる、というのは今後の人生いいことないぞと言われかねないくらいの幸運なことだろう。非常に都合の良いゲームの設定でもなければ中々聞かないような話だ。
素晴らしく運の良いことに、俺にはなんとその美少女の幼馴染がいる。しかも仲良しの。男女の幼馴染というのはどうしても何処かで疎遠になるタイミングがあるはずだが、俺達は未だそうならずにいるという奇跡のような話だ。
まあそんな奇跡をただただ享受できる分だけしているってだけで、何かを積極的にしたことはないがね。
目の前で俺が飲むつもりで買っていたブランデーを遠慮なしにぐいぐい飲んでいる美少女幼馴染様を横目にそっと溜息を吐く。
別に家に来て思い切り酒を流し込んでいくのは構わないのだが、今日という日にまでやってくるのはどうなんだ。
「お前、今日彼氏とデートって言ってなかった?」
いつもはほぼ色を忘れてきたかのような乳白色の肌に、今はそっと赤みを散らして存分に酔っているらしいそいつに言う。何気なく言ったつもりであったが、どうにも呆れが滲んでしまう。
今日は午後の授業が休講になっているから、それを利用してデートすることになったと昨日聞かされたばかりだから間違いはない。
現在時刻は午後十時を回ったところで、こいつが家に来たのはその五時間前。午後五時である。
デートに行った女が中学生でもありえないような時間に帰って、彼氏でもない男の家にやってくるってなあ。
しかもこうなったら日付を跨ぐまでは帰らないから下手をするとデートしていた時間よりも長くなる。
「だっておばさんが夕飯ビーフシチューにするって言ってたんだもん」
メイクで嵩を増さなくともたっぷりとしている睫毛を震わせながら信じられないことを言う。
「彼氏との夕飯と家の夕飯を秤にかけてんじゃねえよ」
しかも家のメシが勝ってんじゃねえよ。呆れて溜息も出ない。
「でもあーちゃんちのご飯美味しいしー」
「家のメシくらいいつでも食いに来ればいいけど、時と場合を考えろって話だよ」
酒を飲んでいるときに小言なんて言いたくはないが、流石にこれでは彼氏が可哀相だ。もっとも、楽しそうにふらふらと揺れているこいつがきちんと聞いているとは思えないが。
常識的にこう言っておくべきだろう、なんていう上辺だけで並べているだけの文句さえ聞かれていないのであれば、それはもう徒労だ。積極的に拒まない時点で俺には何かを言う権利はない。
気分を切り替えようと空になった酒瓶を持って立ち上がる。
「あ、説教終わり?」
「トイレ行くついでに水持ってくる」
「まだ十時だろー、酒持って来いさけぇー。彩花様はまだ飲み足りんぞぉ」
「はいはい」
言うだけ言ってもりもりとナッツを食い始める幼馴染様を尻目に部屋から出て、やっぱり溜息を吐いてしまった。
幼馴染様は可愛いわけだからそれなりに告白されるしそれなりに彼氏も作る。とっかえひっかえしてるなんて噂が立てられないように程々にしてほしいし、どうもガードが薄い印象があるから変な男に引っかからないか心配になる。一応悪い男に近づかれていたら、やめておきなさいと忠告はするが。
だからこそ、あまり過保護にするのも悪いから、目に届かないところまで管理したいとは思わないようにしている。……心掛けているというだけで、たとえば先日サークルの二十歳おめでとうコンパで羽目を外し過ぎた彩花をすぐに連れて帰ったりと、結局過保護になってしまうんだけどね。二次会くらいまではいるべきだっただろう。お持ち帰りする気満々で彩花に飲ませていた蔵川先輩のあの目はしばらくは忘れられない。
まあ同じ大学に進学したよしみで、と彩花の親御さんにも頼まれているから無下にも出来ないしな。
無下にはしないから家に来る度に深夜まで酒盛りをすることに対して娘さんをお叱りしなさいよと言いたいところだけれども。
「また草食系とか言われんのかなあ」
主に彩花の母によく言われる。彩花の妹にもたまに言われる。
泥酔気味の女に何もせずにただただ肩を貸して送り届けるだけの男というのは、確かに客観的に見れば草食系と称されても仕方ないからして甘んじるしかない。
恵まれていることは自覚しているが、昔から気が置けない仲でやっていると積極的に彼女にしたいという欲が湧かないんだよなあ。現状で十分満足というか。エロ漫画ならそんなことを言っている裏で悪そうな男に掻っ攫われているパターンだ。
仮にもうそうなっていたとしても、ショック受けるよりも前に彩花の親御さんに監督不行き届きでしたと土下座してそう。
割と失礼なことを考えながら、ミネラルウォーターと親父のものだろう安ワインを冷蔵庫から取り出して部屋に戻る。
先程までは壁側の座布団に座っていた幼馴染様が、ベッド側……俺が座っていた方の座布団に陣取りつつベッドに寄りかかってスマホを弄っていた。しかも俺のスマホであった。
「お帰り」
意識してできるだけ嫌そうな顔をしながらテーブルに持ってきたものを置き、少し距離を置いて隣に座る。
「何してんスかね」
「鏑木くんからクレームのメッセージ来てたから代筆してあげてる」
「お前俺が刺されたらどうしてくれんの」
鏑木くんとは彩花の彼氏だ。クレームを付けてきた、ということはこいつは帰り際に馬鹿正直に俺の家に行くとでもぶっちゃけてくれたのか。
首元に熱でも籠っているのか、ベッドに乗せている長髪を片手で波打たせるように動かしながら、もう片手はすいすいと文章を入力している。しっとりと煌く髪にちょっと目を奪われながらもスマホを取り返し、中身を確認すると、本当に鏑木のやつに返信していた。
馬鹿正直に今夜の予定を伝えてくださったようで、仲野さんそっち行ってる? という当たり障りのない発言を代筆様が来てるよと当然のように返してくださり、まだ俺んちで飲んでるよと油を注いでくださり、当然のように怒らせている。他人の彼女とサシで飲むなんてそりゃ怒られるよな。本来なら鏑木が彩花と二人で飲んでいたかもしれないのだから。
「せめて飯食って帰ったよとかにしてくれよ。俺来週どんな顔してあいつに許しを請えばいいんだよ」
しかもこいつ酔いで多少エロい顔になってる自撮り送りつけてやがる。
「いーの、どうせ鏑木くんとは明日にでもお別れするつもりだったし」
「俺が寝取ったと勘違いされるだろうが」
一旦鏑木からの通知をオフにして、溜息を吐く。別の友人からもう仲野の返却期限になったのかとからかうようなメッセージが来ていたので下痢になれと返信してからスマホの電源ごと落とす。たまに彩花がこういうことをして彼氏と別れることがあるので、俺がそういう趣味のある男疑惑をかけられていて辛い。俺に彼女ができない理由の四割くらいを担っていそうだ。
「そういえばこの前千紗からあーちゃんに飼われてるのかって聞かれたよ」
「家の子可愛いでしょ? ってペット可愛がらせる感覚で送り出してると思われてるのか俺は」
「なるなら犬かなあって答えておいたから安心して」
「あーちゃん犬派だもんね、みたいな目で見るのやめてくんない?」
せめて保護者扱いで頼むよ。よりによって口の軽い牧島に言うとかもう俺大学の構内歩けないよ。
ともすれば口を突いて出そうな雑言を水と共に飲み下す。俺に不利な噂が流れるのは今に始まったことじゃないが、そろそろ現実の俺と噂の俺との乖離が激しくなりそうで恐ろしい。
「つーか今回早かったな。一ヶ月も経ってないんじゃないの?」
気持ちを切り替えるついでに話題を逸らすことにした。
「あーちゃんにどう? って聞いた時微妙そうな反応だったから期待はしてなかったけど、予想以上に微妙だったんだもん」
確かに鏑木がモーションかけてきたといつものように相談されたから、そんなに面白いやつではないとは言ったが。それにしたって付き合う前から期待されていないとか可哀相にもほどがある。
しかしながら、お前のことを良い男として紹介しなかったばかりに始まる前から終わっていたぞすまんかった、などと奴に言えようはずもない。
何も言えなくなってしまったのでワインをグラスに注いで呷る。横でにこにこしながらこっち見てるやつにも注いでやった。
「なんで男はこれに引っかかるのかねえ」
彼氏ができようと俺との友達付き合いを全く変えない女だし、俺も小言こそ言うが積極的に配慮しないから、こういう問題はどうしても起こる。俺もこういう状況でちょっと優越感憶えちゃうから悪いんだけどね。彼女にはしないけど距離も置かないっていうクソ自己中男よ。
俺の家に遊びに来ないくらいに夢中にさせればいいんじゃない? と何の気なしに言ってドン引きされたこともある。
「可愛いからじゃない?」
「身も蓋もないことを自分で言っちゃうのか」
「あーちゃんもいつも私のこと可愛い可愛い言うでしょ」
「可愛いしなあ」
観賞用として。
「ふふん」
グラスをくるくるしながらドヤ顔しなかったらもっとよかったんですけどねえ。
「もっと可愛い私にお酒を注ぐがよいぞ」
「はいはい」
半分程になっていた中身を今一度満タンにしてやって、俺はそのままラッパ飲みをする。どうせ飲みきるつもりだしいいだろう。
「あーちゃんはあんまりそういう荒々しいのが様にならないね」
グラスを傾けながらワインを飲むのが様になる女がそんなことを言う。
「草食系らしいからな」
結局いつものように日付が変わるまで飲み会が続き、ようやく帰る宣言をした彩花を送る。送ると言っても俺の家と彩花の家はさしたる距離もないので楽なもんだ。吐くほど飲む女でもないし。
無許可で彩花の鞄から鍵を漁って勝手知ったるとばかりに部屋に放り込んでもいいのだが、妹の彩萌ちゃんがまだ起きているとのことだったので連絡して迎え入れてもらった。
「いつものことながら二人とも酒臭い」
玄関戸を開けるなりダメ出しを食らった。
「結構飲んだからね、許してよ」
「姉が彼氏でもない男の人にべろべろに酔わされてるって複雑」
「彼氏じゃないけど友達だからセーフでしょ」
非常に微妙そうな表情である。
ここでとぼけ続けられるほどの胆はないので、とりあえずの目的を果たすために彩花の靴を脱がせて横抱きにする。そのまま二階の彩花の部屋まで運んでベッドに下ろしてやった。さすがに着替えの介助は俺が帰ってから彩萌ちゃんに頼むしかない。
「お姉ちゃん、またフったの?」
さて帰るかと振り返った瞬間物凄い直球が飛んできた。彩萌ちゃんは茶番でも見るような目を俺に向けている。
そりゃまあ、彼氏とデートに行った姉が彼氏でもない男のところに飲みに行って帰ってきたら、当然そういう結論にもなるよな。さらに言えば、彩萌ちゃんからすれば何度か見たパターンでもある。
突き刺さる視線から逃れる様にしばし顔を背けて、深くを息を吐く。
「まだだよ。起きたらさよならって言うんだろうけど」
彩花がどうでもよすぎて忘れたりしない限りは。流石に彼氏に別れを告げることがどうでもいいことになりはすまいが、こいつならやるかもしれないという一抹の不安がないこともない。俺が言うのも失礼な話だが中々テキトーな生物であるからして。
俺の返答を受けて、白けているくらいの感情が浮かんでいた彩萌ちゃんが完全な無表情になった。基本的に俺達のことは嫌いじゃないが尊敬はできないといつも言ってるから仕方ない。
「いい加減、家の姉に首輪だけじゃなくてリードも付けてくれない?」
「リード、ねえ」
そもそも首輪も付けた覚えなんかない、って言ってもダメなやつだろうな。何だかんだでさっき冗談で話していたペットのたとえが、端的に俺と彩花の関係を客観的に表しているのも確かだ。俺としては彩花に変なものを付けないでのびのびとさせてやりたい―――なんて。
言ったら叩かれるよな、既に変なもの付けてるでしょうって。嫌いリストに入る可能性も高い。
彩萌ちゃんから目を背けて、ベッドで気持ちよさそうに寝息を立てている彩花を見やる。
「お姉ちゃんをダメな人にしたのは葵生ちゃんだし、そのくらいの面倒は見てよ」
ダメな人にするも何も、君のお姉ちゃんは元々ダメだよ。とは言わない。
特に何も答えず、視線は彩花を見つめたまま。そんな重い話でもないし、別に軽く引き受けてもいいっちゃいいんだよな。『今の関係が壊れるのが怖い』ってこういうシチュエーションだとよく言われるけど、別にこの程度で壊れるとは思ってない。せいぜい失敗した時に話のネタにされて恥ずかしいってところが関の山だろう。
もう一度視線を彩萌ちゃんに戻すと物凄い真顔だった。
「考えとく」
多分俺は今人の神経を逆撫でするようなへらへらした笑みを浮かべているんだろう。彩萌ちゃんが尊敬できない人に向ける目をしている。
「そんな待たせないから安心してよ」
我ながら嘘くさい言葉だ。
「単に、彩花が狸寝入りして聞き耳立ててるから明言しないってだけのことだから」
俺の言葉に前後からうめき声が聞こえた。彩萌ちゃんは姉が寝ていると思っていたからこそ言っていたことが聞かれていたことが恥ずかしくて、彩花は狸寝入りがばれたことに対して。
「……葵生ちゃん、このクソ姉は檻に入れる方向で考えてもらっといていい?」
「それは面白そうだから了解したいなあ」
「私はそういう趣味はないかなー」
しいてこの後について語るのであれば、叩かれるのが俺じゃなくてよかった、とだけ。
*
明けて月曜。鏑木の呪いの籠ったLINEをのらりくらりと躱しながらすごす休日はとても充実していた。充実しすぎて昨日の夜なんか彩花と一緒にホラー映画なんかを嗜んでしまったほどだ。
「よう彩花、上がらせてもらってるよ」
一緒に楽しんだはずなのに、まるで十分に眠れなかったみたいな目覚めをしている彩花に朝の挨拶を投げる。
おかしな話だ。同じく楽しんだ俺は爽やかに目覚めて早めに準備して、仲野家にお邪魔してお茶を戴くくらいの余裕があるというのに。
「あーちゃんに檻に入れられるのだけはごめんだって痛感したよ」
珍しく溜息なんか吐きながらそんなことを言う。俺的には檻に入れるってことをひたすらいじめるという風には捉えてないけども、まあいちいち言葉にすることでもないな。
家を出る頃には復活した彩花と、いつものように通学する。今日は二限のみの日だからもう少しゆっくりしても良かったが、彩花はとにかく満員電車を嫌い各駅に乗りたがるがゆえの措置だ。俺は満員だろうと電車に拘束される時間は短い方がいいんですけどね、なんて言おうものなら彩萌ちゃん並の真顔で見つめられるに違いない。
とは言えそんな風に呑気に鈍行に揺られた末に着いてもまだ講義までは余裕がある。こっちは俺の性分だ。四十分前行動とかを平気でやらかすので、一度俺だけそれを見越した集合時間を告げられたことがあるくらいだ。
前の時間に何も入っていない教室なので、さっさといつも座っている辺りの席を取る。彩花も俺の隣に座ってファイルとペンケースを取り出し、鞄はそのまま横にスライドさせた。一応友人の席確保なのだが、この授業は出席を取らないため出たり出なかったりで無意味に終わることも多い。ただ、今日は何を言われるかわかったものではないので、できれば家で大人しく寝ていてほしい。泥のように眠っていてほしい。
「どうしたの、私のカバンなんてじっと見て」
「会いたくねえなって思ってただけだよ」
「残念だけど千紗なら来るってさ。久々にナン食べまくりたいからついでに出るみたい」
「あいつの乗った電車ピンポイントで止まらねえかな」
そういう時こそままならない、というのはマーフィーの法則だっただろうか。
結局牧島はただ出席するだけでは飽き足らず、珍しく開始前に間に合うというおまけ付きでやってきた。
「はよー千紗。今日は早いね」
「ちっすちっす。お、どうした寺崎ぃ、調子でも悪いの?」
しかも午前授業で会う時はいつもあらゆるものを逆恨みしていそうな険しい顔をしているというのに、きちんと目覚めることができたような溌剌さまで発揮している。根こそぎ奪われた俺の休日稼働エネルギーが何かの手違いでこいつに注がれるようなことでもあったのか。
「牧島を見た瞬間からめっちゃ気分下がってるけど元気だよ」
絶対鏑木のことでからかってくるから会いたくなかったですけどね。
会うなりいきなり御挨拶なことをかましていく俺に対して不機嫌を露わにするでもなく、何かあったかと思案するように口元を覆う牧島。やがて心当たりに辿り着いたのか、ああ、とくぐもった声を上げた。
「鏑木がキレてたね。寺崎のやつわざわざ仲野に自撮りさせやがったとかわけの解んないこと言ってた」
わざわざっていうか全部彩花の独断だよって言ったらあいつ死ぬのかなぁ。
寺崎葵生クソ男伝説にまた新しい記述がなされるだけかな。
「まあどうせいつものレンタル期限迎えた男の嘆きだよね」
いつも通りの意地の悪い笑みで暫定貸出元にされている俺に同意を求めるようにそんなことを言う。
「だからレンタルっていうのやめろよ」
持ってるつもりも貸してるつもりもないんだぞこっちは。
「いつも思うけど、あーちゃんとこに戻りたいから別れてるっていうのは違うよ。誰と付き合ってもあーちゃんとは普通に遊ぶし」
とりあえず主張をしようとばかりに口をはさんでくる彩花。
表情筋を動かさずにそういうこと言うといかがわしさが半端じゃないな。態度もさることながら内容が何のフォローにもなっていない様には感動さえ覚える。
「相変わらず爛れてるよねー、キミたち」
牧島はけらけらと笑いながら辛辣な評価を俺達に下した。
「爛れてるのは彩花だけだよ」
「そんな彩花の行動を普通に受け入れてる寺崎も十分爛れてるって」
それを言われてしまうと俺にはもう何も言えなくなってしまう。常識人ぶって非常識なことをしているのは俺自身重々承知である。そら彼女もできませんわってなもんだ。
「じゃあ次彩花が彼氏作った時は自重した方がいいかな?」
「あーちゃんが遠慮って気持ち悪い」
笑顔でばっさり行くなこいつ……。でも確かに昨日まで好き放題やってたガキが、今日になって急に聞き分けが良くなったら喜ぶより先に不気味なものを感じるわな。
「そもそも寺崎が彼氏になるって選択肢はないのか……」
呟いた牧島は、とても味わい深い表情をしている。
「なるのはいいんだけど、やっぱり寝取らせが好きなんだねって目で見られそうなんだよね」
「あーちゃんってそんな変態だったの?」
無邪気な笑顔で酷いこと言うね君。
「そういうつもりはないんだけどな」
何も付き合わなくてもって呑気にしてたらまるで泥沼のようになってるってだけで。
牧島がほんのり軽蔑するような目で俺を見るのがとても心に刺さる。
彩萌ちゃんにもリード付けとけって言われたし、ただでさえ悪い立場をさらに悪くしていくのも好んでしたいことではない。帰りにでも表面上は彼氏彼女でいてくれって言うべきなのかなあ。
「でも私じゃない人を彼女にでもしない限りは、そういう変態だよね」
俺という人間の危機に対して、どうして君はそんなに嬉しそうにしていられるのか。
「じゃあ仮に寺崎に彼女ができたとしたらどうなるんだろうね」
言葉の割にはポジティブな結果に繋がってほしくなさそうな渋い顔をしている。
彼女か……どうなるんだろうな。俺も彩花にパラダイムシフトでも起こらない限りは付き合い方を変えるつもりはないから、彩花にも寝取らせ好きの称号が授けられるか俺の悪評がさらに増えるかのどっちかかな。
「まず酷評されてる俺と付き合おうっていうネジの飛んだ女はいないでしょ。いつも彩花にべったりしてるし」
「一年は結構寺崎の評判知らないし、二年も彩花のことを切り離して考えれば付き合えるって子いるよ。三、四年に関してはわからないけど」
つまり何も知らない後輩を騙すか部分的に記憶を失える女かの二択か。それってほぼ無理ってことじゃね?
眉間にしわが寄ってしまうのはどうしても抑えられない。
こういう時、モテる美少女な彩花が羨ましいよ、全く。
何を言うでもなくただ横目で牧島を見ているだけの彩花を、ちらりと視界に収めつつ嘆息した。
講義を適当に聞き流し終えて、牧島がよく行くカレー屋にしこたまナンを食いに来た……のはいいんだが。
「どうした彩花、飯を食う前に眠くなったか」
どうもさっきから彩花の元気が薄い。
「えっ?」
隣に座っている彩花が今目が覚めましたとばかりの間抜けな声を上げてこっちを向いた。なんだこいつ……無意識でここまで歩いてきたとでもいうのか。がっちりと俺の手を掴んでいたくせにこいつ。
しっかりと今日のおすすめまで頼んでおいてこいつ。
「浦田の講義は眠くなるししゃーないっしょ」
届いたばかりでまだ随分と熱を持っているナンを元気よく引きちぎりながら言われても説得力がないぞ牧島。しかもそのまま食べている。カレーが食いたいのかナンが食いたいのか。つーか熱くないのか、灼熱の化身か何かかお前。
「んー、まあ、眠かったのかな。昨日はあーちゃんが中々寝かせてくれなかったし」
「彼氏と別れたばっかりの女を寝かせないとか、あんたホントいい趣味してんね」
「久々にホラーをたっぷり観たかったのと、彩花に嫌がらせをしたかったのを同時に果たしただけだよ」
自分でもおどろくほどいい笑顔が出たと思う。ね、と隣ににこやかに顔を向けるととてもうんざりしたようなお返事がいただけた。
「何なら今度牧島もどう?」
「……浮気の算段ならあたしじゃなくて他当たってよ」
「あれ、牧島彼氏いたの?」
「いやあたしじゃなくて……。せめて彩花の許可取ってからにして」
何故友達を誘うのに別の友達の許可を取らなきゃならんのだ。ただならぬ主従関係でもあるのかお前たちは。
困惑しつつも言われた通りに彩花を見るが、彩花も彩花でよくわかってなさそうに笑っているだけだった。
「今度お前と映画観る時に牧島足していい?」
まあ許可を取れということなら取ろう。
「千紗と二人っきりで観るんじゃないんだ」
「違う違う、流石に友達とは言え女をいきなり部屋に誘わないよ。もっと手順を踏むって」
牧島相手に手順を踏みたいかはともかく、とは言わずに飲み込んでおく。
「どっちにしてもダメだよ」
笑顔のままきっぱりと断られた。しかもあまり間も置かずに。
……実際にいいよと言われても牧島が断るだろうし、結論としては違わないか。
彩花は自由に生きている割に俺は制限されているような感じがしていい気分ではないけれど、男は理不尽を耐え抜くことが多いと父さんもたまに言っていたし、そういうものなのだろう。我慢ってほど忍耐力が要求されるようなことでもない。
彩花はちらりと牧島を横目で見やると、もう一度ダメだよと念を押すように繰り返した。
「許可が下りなかった」
「ざんねんだなー」
凄まじく心のこもっていない言葉と生き生きとした表情とは、素晴らしい対応だな。
全身で一緒にいて何も起こらなさそうな女アピールをしてくれている。
例えば許可が下りたとして、牧島と二人きりで映画なんて観る羽目になっていたらどうなんだろうな。彩花ほど距離が近いわけではなく、ぎくしゃくするほど遠い関係でもない。程々の友人と二人きり。うーん……状況だけはAVみたいだ。
でも普通に映画観て適当に批評して終わるだけだろう。
そう考えるとむしろ許可が出なくてラッキー―――いやいや、そもそもの目的は彩花を弄り倒す援軍要請だっての。ここ数日恋人関係について考える機会があったもんだから思考が引きずられている。
彩萌ちゃんにどうにかしろと言われたのは彩花とのことだけだ。牧島にまで恋愛脳を持ち込んではいかん。
「ん、ごめん」
などと煩悶としながらも機械的にカレーとナンを食べていると、不意に彩花が席を立った。
食事前に済ませておけよなと文句を付けてやりたいが、まあぼうっとしてたし仕方ないか。
……この店あんまり広くないからドアの開閉音がちょっと聞こえてくるのが困るな。
「寺崎はさ、彼女欲しいとか思ってる?」
音が聞こえてから数十秒。
タイミングを見計らったように―――見計らったんだろうな、ともかく急に牧島に切り出されて面食らう。わざわざ彩花が外したところに言ってくるのだ、あいつには聞かせたくない話なんだろう。嫌だなあ、そういうの。あいつと一緒にいる時にふと頭過ったりするからなあ。
茶化しているでもなく、多少真剣な面持だから余計に重い。
流したらおそらく牧島の機嫌を損ねるだろうし、こっちもきちんと答えなければならないか。
「そりゃ欲しいよ。これまでの人生、彩花はいても恋人がいたことはないからね」
自分でも眉を顰めたくなるような贅沢な話だ。彩花という別枠を作った上で、さらに彼女まで欲しいだなんて。だからこそ、周囲はそれとなく彩花にしておきなさいという空気を出すんだろうし。
牧島がその派閥かどうかはともかく、俺の答えはお気に召さないものだったらしい。
「やめておいた方がいいよ」
努めて感情を抑えた声音でそう忠告された。
「ぶっちゃけ、寺崎が彼女を作ろうとするならどうとでもなるよ。見た目いいし、性格も彩花に関係しなきゃ悪くないから」
意外にも二の句は肯定的なものであり、しかしだからこそ何故忠告されたのかが解らない。
解らない……ということにしておきたい。
「でもやめておいた方がいい。解るでしょ?」
解らないことにしておきたいんだけどな。溜息を吐いて、嫌々ながらも首肯する。
「……そうだね。俺ももっと強めの独占欲を持つようにする」
俺の返事に牧島は満足とも不満とも言えない、曖昧な苦笑を浮かべた。
そしてお互いに黙ると、丁度良くドアの開閉音が聞こえる。
ばつが悪そうにはにかみながら戻ってきた彩花だったが、どうも俺達の微妙な空気を察したらしく、俺の脇腹を突きながら何事かと無言の尋問をしてきた。
「牧島にいつも通りからかわれてさ、答えに困ってたところなんだよ」
「そーそ。さっきあたしと二人きりになりたそうにしてたけど、実際に二人きりになってみてどう? ってさ」
乗ってくれるのは有難いが、内容が絶妙に空気読めてない。
「ふうん」
極めてどうでも良さそうに。
「どうなの、あーちゃん?」
けれども目を爛々と輝かせて、俺以外にはあまり見せることのない無防備な笑顔で尋ねてくる。
「……メシは静かに食え」
ナンをちぎって彩花の口に突っ込む。唐突な俺の行為に彩花は虚を突かれたように目を丸くしたものの、すぐにまたにこりと笑い、ちらりと横目で牧島を見やる。
完全に食わせてから正面に向き直す途中でほんの少しだけ見た牧島は、何も感じさせない瞳を彩花に向けていた。
会計を終えて店外に出る。スパイスの香りで占められていた肺に雑味まみれの空気を送り込み、両方まとめて吐き出す。
しかし牧島、解っているつもりであるならあんまり彩花を刺激するようなことを言ってほしくなかったな。基本的に彩花のわるい部分は全て俺が受け持つ羽目になるのだから。
「千紗はもう帰るの?」
「大学戻ってレポート書いてく」
俺が出てくるなり、牧島はじゃーねと緩く手を振りながら大学の方へ戻っていった。
レポートの提出は再来週だしそんな急ぐこともないだろうに。もしかしてわざと彩花を煽ったから後ろめたいとかだろうか。
何となく見送っていると、それを塞ぐように彩花が俺の正面に来る。
「ねえあーちゃん、私達はこれからどうする?」
目を爛々と輝かせたまま。
……これからの予定は決まったようなもんだな、何を言っても無駄だろう。全く牧島め。
「特に予定もないし、彩花がどこか行きたいところあるなら付き合うよ」
「そっか」
右隣に移り俺の手をがっちり握る。意味ありげな笑みが、期待してるんだとでも言いたげだ。
「なら……寄り道して帰ろ?」
リードを付けておけだとか飼い主だとか、そんな風に俺が繋いでおく立場のように言われるが―――本当に繋がれているのはどっちなんだろうな。
*
翌々日の夜。俺も彩花も次の日は授業を入れていないので、何かして遊ぼうと彩花がやってきている。
酒は先日消費したばかりで買い足していないし、折角なので協力プレイができるゲームを引っ張り出して、二人でやることにした。
携帯ゲーム機だからお互いの表情こそ見えないが、ああでもないこうでもないと言い合いながらするのは楽しい。
それは彩花も同じであるようで、不意に会話が止む間には鼻歌を歌っている。
ひとつだけ問題があるとするなら、彩花が俺の太腿を強引に枕にしているせいで姿勢を変え辛いところか。
「そういえばね」
お互いにアイテムを整理していて会話が切れていたところにわざわざ前置いて切り出される。
「さっきLINEで蔵川さんにそれとなくアピールされたんだ」
行動が早すぎる。この前のコンパで持ち帰り阻止されたのがそんなに尾を引いていたのか。
ゲーム機を一旦閉じて寝転がったままの彩花の方へ顔を向けると、そちらもゲーム機を胸の上に置いて、俺をじっと見つめていた。
彩花は誰かにモーションをかけられると決まって一度俺にそれを報告する。鏑木の時もそうだったし、それ以前も―――それこそ一番最初にこいつが彼氏を作った時も。俺はその相手が目に余るような奴だったり告白まで持ちこまれることがそもそも不味い奴だったらやめておけと言い、そうでなければ好きにしたらいいと言う。
後者の返事をした場合彩花はそいつと付き合い、そして例外なく別れている。
蔵川先輩は前者の内目に余るタイプの男だ。普段通りであればセフレとして欲しいだけだから止めておけと一言告げてそれで終わりにするのだが。
……ちょうどいい機会、ってことになるんだろうか。
「これからはそういうの全部断るか避けるようにしてくれ」
俺は彩花に対して独占欲を抱いたことはない。
けれども、あえてそれを感じさせるような言葉を選んだ。
予想していなかった答えだったのか、彩花は一瞬きょとんとしていたが、すぐににやにやとした笑みを浮かべる。そして体を起こすと俺の足を跨ぎ、そのまま腰を下ろした。ちょうど対面座位みたいな形というか。話題と彩花の表情の所為か、思わず官能をくすぐられてしまう。
「私のこと、繋いじゃうんだ?」
緩く首に手を回される。
縛り付けようとしているのは俺であるはずなのに、絡め取られているのはこちらの方。
「ああ。お前を俺の彼女にする」
恋愛感情としての『好き』という気持ちは、やはり俺にはない。恋人へと当然向けるべき感情を持ち合わせてはいないが、それでも言い切ることにした。
当然彩花には見透かされている。まあ大事なのは伝えたい意図だから、それは構わない。
「好きじゃないくせに」
非難しているのに、その声音はどこまでも甘い。
「いいだろ。お前だって、俺のことを確実に独占できるようになるんだから」
彩花も俺に『好き』という気持ちを抱いてはいないだろう。
だが、俺への独占欲だけは昔から異常にあった。付き合っていないけれど、奪うことを決して許さない女だ。
男と長続きしないのも、結局のところ俺から目を離している時間が増えることに耐えられなくなっていくから。俺が許可を出しているのと、彩花自身も独占欲の矛先が変わるかもしれないという期待から彼氏を作るものの、今の今まで成功した例はない。
いつ諦めるか。そういう話だった。
俺が口にしたのはその提案。強い感情を抱いていない俺側からしかできないもの。
よく頑張ったけどもう諦めようか、ということである。
「恋愛してみたかったなぁ」
弱く俺を抱きしめながら、残念そうに呟いた。そんなこと言ったら俺なんて、彩花が上手く行ったら挑戦してみようとしていたのだから、こうなった以上機会すら得られずに終了である。
「俺と牧島が喋るだけでもダメなくせに」
「あえてあーちゃんに近いところに女子を置いてみたんだけど、逆効果だったなー」
「恋人でもないのにそれっぽいところ見せつけるようなことばっかりするようになるんじゃなあ」
牧島に聞かれたら怒られそうな話だ。親身になって忠告までしてくれたというのに。
彩花は「うるさい」とふてくされたように囁いてから、露骨に話題を逸らした。
「で、私達は今から恋人同士、ってことにするの?」
「そうなるな」
肯定する。収まるところに収まった……ということに、なるのだろう。
彩花が静かに立ち上がり、そのままベッドに上がってごろりと横になる。
顔をそちらに向けるとすっきりしたような顔の幼馴染様がいらっしゃった。
「年貢の納め時だね、お互い」
付き合うという形にするのは簡単だ。そうなることに対して否定的ではない。ただ、俺達の間を繋いでいるのは彩花の俺への執着ひとつだけ、という心許ないものである。ある日それを失ってしまったらあっという間に終わってしまいそうで、だからこそ曖昧なままにしておきたかった。
でももう、そのままではお互いの家に心配をかけすぎてしまうということに、昔ほど無自覚ではいられなくなった。
だから彩花の独占欲が俺に向き続ける限り付き合っていこうと―――諦めることにする。
歪だった関係を少なくとも見た目には普通に見えるようにするのだから、客観的には前向きな結論だろう。中身はあまり変わらないまま、それでも上手く行ってしまうであろうという問題が残っているけれど。
「そういえば私、あーちゃんのベッドに本格的にマーキングしたことってないよね」
無駄に見つめ合っていたら、唐突に幼馴染様が雰囲気をぶち壊しにするようなことを言い出した。
だが言われてみれば確かに彩花がそうしたことはない。せいぜいベッドの端っこに髪の毛の匂いをこすりつけるくらいだ。それも十分どうかとは思いますがね。
「いつもはお前の部屋か別の所だからなあ」
……お互い恋はしていないが、恋人関係にある男女がするようなことは一通りしている。
特にこういう方面のことは基本的にお互いがお互いの初めてだ。爛れた関係で申し訳ないし、草食系でもなくてごめんなさいと各方面へ謝罪をしなければならないレベルである。
「じゃあ折角だし、しよっか?」
『折角』の一言に色々集約しすぎだろうと苦笑しつつも、断らずにマーキングの手伝いをすることにした。
*
たまたま家族が全員出払っている日で助かったな、と安堵しつつ激しいやんちゃの後始末をした後、ふにゃふにゃになっている彩花を背負って家まで送る。
彩花曰く俺とは相性が良すぎるとのことで、俺がちょっと張り切るとしばらくは使い物にならなくなるのだ。満足していただけるならそりゃ嬉しいけれども、一人で片付けをする羽目になるのはいただけない。まあこうしてぐったりとしているおかげで、遠慮なく密着した胸の感触を背中で楽しめるという特典があるからプラマイゼロと言えなくもない。
短い道中に全力で色々と弾ませて堪能して、満足したところで仲野家に到着し、チャイムを鳴らす。
今回も彩萌ちゃんに事前連絡をしてあるので恙なく迎え入れてもらった。
「うわぁ……」
いつもの嫌味なしでただただドン引きされた。
「うわぁ、て」
素直すぎる反応に苦笑を禁じえない。
「姉がここまでダメになってるのを見るのは初めてだから、つい」
確かに家で酒盛りをしても、悪くて肩を貸して帰ってくるくらいだからな。背負った状態で送るのは俺も今日が初めてだ。
「でも酒臭くないね」
眼と嗅覚が鋭い女子だ……。
「まあ……ちょっとね」
はしゃぎすぎたことを正直に言うのはさすがに恥ずかしい。だから言葉を濁して察していただくしかない。彩萌ちゃんも高校生だ、それくらいの洞察力は当然あるだろう。
「うわぁ……」
察されて改めてドン引きされた。
「引かないでよ」
「引くよドン引きだよ。ありえないよ」
そのまま彩萌ちゃんは俺に罵声でも浴びせようとしたのか何かを言いかけるが、それが意味のある言葉となることはなく、飲み込まれてしまう。
「……私が悪かったから、その目やめてよ、お姉ちゃん」
代わりに出てきたのは姉への嘆願だった。
どうやら俺の背負っている彼女が顔を上げて実の妹を睨み殺そうとでもしているらしい。ゴーゴンかお前は。独占モードを彩萌ちゃんにまで発動しなくてもいいんじゃないかと宥めてやりたいところだけど、それで聞くなら始めからこうはなっていない。
でも反抗として背負い直す振りをして思い切り尻を掴んでやった。びっくりしたらしく頭を下に向けた気配を感じる。成功だ。
実姉の攻撃から開放された彩萌ちゃんは呆れたように溜息を吐いて、こちらに背を向ける。今のがなければ多分彩花の部屋まで着いてきたのだろうが、大事を取ってリビングに引っ込むことにしたのだろう。
「……おめでとう、お姉ちゃん」
そのおめでとうに一体どんな意味が籠められているのか、背中しか見えない俺には解らなかった。
彩花の部屋に入ると、彩花が下りたそうに身動ぎしたのでそうしてやる。ついでに顔を見るが、とてもじゃないが妹をビビらせたばかりとは思えない穏やかなものだった。
「彩萌には後で謝っとく。した後ってどうしても強くなっちゃうんだよね」
それは何となく察していた。ホテルでした時とかの帰り道は結構凄いし。
無言で抱きしめて背中を擦る、多少でも楽になればいいんだが。出所はわかっていても抑えきれない部分がある、というのは自分でも不安だろう。これからは、俺はきちんとお前に捕まっているぞとアピールしていかなくてはならないな。
「俺は気にしないよ。お前にそうやって執着されるの、悪い気しないし」
これが恋的な好きだったらもう少しマシな話だったんだけどね。
形だけでも恋人にはなったんだし、もしかしたら感情が後からついてくることがあるかもしれない。それか、俺も彩花くらいの独占欲に目覚めて仲良く泥沼に沈んでいけるかもしれない。
これから上手く行くといいよね、っていう、希望でも持っておこう。
ぽんぽんと叩いて解放してやると、首に手を回されて強引に唇を奪われた。
性行為を伴わないキスはそれなりに久しい。急に引っ張られたからおどろいたけれど、これで彩花が安心できるならいくらでもしよう。
「ねえ」
一分くらいむにむにと貪られた後、目を爛々と輝かせたままの彼女がそっと口を開いた。
「好きじゃないけど、これからも私のものでいてね」
とても恋愛感情を抱いていないとは思えない蕩けた笑みがそこにある。
「好きじゃないけど、これからも君のものでいるよ」
俺もきっと、似たような表情になっているに違いない。