プロローグ
遠い昔――といっても、今からわずか半世紀ほど前のことである。
世界は、闇に覆われていた。
それは夜の闇などという生ぬるいものではない。
人の営みそのものを飲み込む、底知れぬ絶望の闇だった。
北方の黒き大陸に突如として現れた魔族の軍勢は、嵐のような勢いで各地へ侵攻した。人間、獣人、エルフ、ドワーフ――種族の違いなど関係なく、すべての文明がその脅威に晒されたのである。
魔族は強かった。
それまで人類が誇ってきた剣術も、魔法も、軍略も、ほとんど意味をなさなかった。
城壁は破られ、王国は滅び、豊かな都市は炎に包まれた。
村が一つ消えるなど、誰も驚かなくなっていた。
夜になると、人々は祈るようにして扉を閉めた。
朝になれば、隣町が地図から消えているかもしれない。
そんな時代だった。
やがて人々は口にするようになる。
――この世界は、もう終わるのではないか。
魔族の軍勢を率いていたのは、魔王と呼ばれる存在だった。
その姿を実際に見た者はほとんどいない。だが、その名だけで国が震え上がった。
魔王はただの王ではない。
それは災厄そのものだった。
嵐を呼び、山を砕き、大地を焼き払う。
数千の兵で守られた城すら、一夜で消し飛ばす力を持つとさえ言われていた。
各国は連合軍を結成した。
歴史上初めてと言っていいほどの大同盟だった。
だが、結果は惨敗。
人類は魔王に届かなかった。
それでも、世界は完全に滅びなかった。
なぜなら――
一人の男が現れたからだ。
その男の名は、アルド。
後に「勇者」と呼ばれる人物である。
当時、彼はまだ二十歳そこそこの若者だったと言われている。
どこの国の貴族でもなく、特別な血筋でもない。地方の小さな村で育った、ごく普通の青年だった。
だが、ある日彼は聖剣に選ばれた。
伝説によれば、世界の均衡が崩れたとき、聖剣はそれを正す者を選ぶという。
アルドがその柄を握った瞬間、剣は光を放った。
それがすべての始まりだった。
彼は旅に出た。
仲間を集め、魔族の軍勢と戦いながら、世界を巡った。
王国を救い、街を守り、何度も命を落としかけた。
それでも彼は歩みを止めなかった。
やがてその名は、希望の象徴となった。
「勇者が来る」
その言葉だけで、人々は再び立ち上がった。
そして――
魔王城決戦。
人類史上最大の戦いが始まった。
空は裂け、雷が落ち、山が崩れた。
魔王の魔力は大地を歪ませ、空気すら震わせたという。
それでも勇者アルドは退かなかった。
仲間たちとともに魔王城の最深部へ進み、ついに魔王と対峙した。
戦いは三日三晩続いたと言われている。
剣が折れ、鎧が砕け、城そのものが崩れ落ちるほどの激戦だった。
そして最後に――
勇者は聖剣を振り下ろした。
魔王は滅びた。
その瞬間、世界を覆っていた闇は終わった。
魔族の軍勢は崩壊し、各地の戦争は終結した。
人々は歓喜し、涙を流し、空を見上げた。
長い長い戦争が、ついに終わったのだ。
その日から、勇者アルドは伝説になった。
彼の功績は歴史書に刻まれ、詩人は歌を作り、子供たちは英雄譚を聞いて育った。
王国は復興し、都市は再建され、街道は再び賑わった。
世界は平和を取り戻した。
魔王討伐から十年。
二十年。
三十年。
やがて人々は気づき始める。
魔族の脅威は、もう存在しない。
五十年が経つころには、それは完全に「歴史」になっていた。
魔王。
魔族。
勇者。
かつて世界を揺るがした言葉は、いつしか物語の中の存在へと変わっていった。
子供たちは英雄譚を笑いながら聞く。
「ほんとにそんな魔物いたの?」
「勇者って、そんなに強かったの?」
大人たちは肩をすくめて答える。
「昔の話さ」
世界は変わった。
戦いの時代は終わり、経済の時代が始まった。
商人は国境を越え、魔法は産業に使われ、都市はかつてないほど発展していく。
社会が求めるものも変わった。
勇気よりも学歴。
剣の腕より資格。
英雄より、安定した職業。
勇者などという存在は、もはや必要ない。
それは遠い昔の称号だ。
歴史の中でしか輝かない、過去の肩書き。
そして――
その伝説の勇者には、子孫がいた。
勇者アルドの孫。
名を、ニコという。
彼は今、王都のとある古びた家で天井を見上げながら思っていた。
「……そろそろ働かないとなぁ」
英雄の血筋。
世界を救った男の孫。
しかし現実は――
二十五歳、無職。
勇者の伝説から半世紀。
平和になりすぎた世界で、
勇者の孫は――
職探しに苦労していた。




