第10話 朝のベルンハイム
朝のベルンハイムは、静かに始まる。
ザルツブルグみたいな大都市だと、夜明け前からどこかで荷車の音がしていたり、河港の方から人の声が聞こえてきたりするものだけど、この町は少し違う。夜が明けると、まず聞こえてくるのは鳥の声で、そのあとにパン屋の窯の匂いが風に乗って流れてくる。家の前の通りも最初はほとんど人影がなくて、遠くの街灯がまだぼんやりと灯っているだけだ。
俺はその静かな時間に家を出た。
婆ちゃんの家がある新興住宅区は、戦後に拡張された地区だから道幅が広く、建物の間隔も少しゆったりしている。石造りの古い家が並ぶ旧市街と違って、ここは木造の住宅が多くて、庭付きの家も珍しくない。朝の光が屋根の上をゆっくり滑っていくのを見ながら歩いていると、この町に住んでいる人たちの生活がなんとなく想像できる。
ベルンハイムは、決して大きな町じゃない。
中央大陸コルリウスには都市が無数にあって、その中にはザルツブルグみたいな二百万都市もあれば、数十万人規模の都市もある。そういう場所から見れば、ベルンハイムなんて本当に小さな点みたいな町だ。
中央大陸は広い。
ものすごく広い。
学校で習ったとき、先生はよく言っていた。中央大陸コルリウスはとにかく広い、と。王国や自治都市、領邦がいくつも集まってできている文明圏で、一つの地域を抜けるだけでも何日もかかる場所が珍しくない。その広い大陸の中にはさらに地方があり、その地方の中に町や村が点在している。ベルンハイムは、そういう広い世界の中にある地方都市の一つに過ぎないって。
でも、その小さな町にも歴史はある。
ベルンハイムは街道都市だ。王都へ向かう王都街道と、西方の高地へ続く西方街道、その二つが交差する地点にできた宿場町が、この町の始まりだと聞いている。昔は隊商がここで休憩を取り、馬を替え、水を補給し、次の目的地へ向かっていったらしい。やがて倉庫や市場ができて人が住み着き、農産物の集積地として発展していった。
今でもその名残は残っている。
住宅区から市場区へ向かって歩くと、だんだん人の数が増えてくる。市場区に近づくにつれて荷車の音が聞こえてきて、倉庫の前では朝から運送業者が荷物を積み込んでいる。農村から届いた穀物袋が倉庫の前に積み上げられ、運送組合の建物の前では何人かの男たちが地図を広げて配送ルートを確認している。
パン屋の店先には焼きたてのパンが並び、通りを歩く人たちが立ち止まって買っていく。酒場の前では昨夜の客らしい男がまだ眠そうな顔をしていて、向かいの肉屋では主人が店先の台を拭いていた。
活気がある。
大都市ほどではないけれど、この町なりのリズムで一日が動き始めている。
俺はその人の流れに紛れるように歩きながら、胸の奥にじんわりした緊張を感じていた。
今日は、面接の日だ。
応募した企業のうち、一番早く日程が決まったのがここだった。
ベルンハイム物流。
市場区の倉庫街の一角にある会社で、街道輸送と倉庫管理を主な業務にしている。ベルンハイムではそこそこ名前の通った企業らしく、職業ギルドの受付の人も「安定した会社ですよ」と言っていた。
……まあ、それが逆にちょっと緊張するんだけど。
通りを曲がると、目的の建物が見えてきた。
倉庫街は市場区の南側に広がっていて、大きな木造倉庫や石造倉庫がいくつも並んでいる。建物の前には荷車を停めるための広い空き地があり、朝の時間帯は特に人の出入りが多い。運送業者が荷物を積み込み、倉庫の管理人が帳簿を確認し、時々魔導輸送車が通りを横切る。
その中でも、ベルンハイム物流の建物は少し目立っていた。
二階建ての石造建築で、倉庫と事務所が一体になっている。正面には大きな搬入口があり、鉄枠の門が開いたままになっている。その奥には木箱や麻袋が整然と積まれていて、作業員たちが手際よく荷物を運んでいるのが見えた。
建物の横には事務所の入口があり、そこには小さな看板が掲げられている。
ベルンハイム物流 本社事務所
俺はその前で一度立ち止まった。
「……ここか」
思っていたより、ちゃんとしている。
正直、もっと小さな会社を想像していたけど、建物もしっかりしているし、人の動きも組織的だ。倉庫の前では十人近くの作業員が働いていて、事務所の窓からは帳簿を見ているらしい人影も見える。
ここで働くのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥が少しざわついた。
緊張。
それと、少しだけ不安。
俺は深く息を吸って、事務所の扉を開けた。
中は木の床の事務室で、壁際には書類棚が並び、中央にはいくつかの机が置かれている。窓際の机では若い事務員が帳簿を書いていて、奥の方には年配の男性が書類を整理していた。
俺が入ると、事務員の女性が顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
「あの……面接で来ました。ニコです」
女性はすぐに頷いた。
「ああ、聞いています。少々お待ちください」
そう言って奥の扉の方へ声をかける。
「部長、面接の方がいらっしゃいました」
しばらくすると、奥の部屋から一人の男性が出てきた。四十代くらいだろうか、落ち着いた雰囲気の人で、作業着の上にベストを着ている。俺を見ると軽く頷いた。
「ニコさんですね」
「はい」
「どうぞ、こちらへ」
奥の部屋に案内される。
そこは小さな応接室で、机と椅子が向かい合わせに置かれていた。窓からは倉庫の様子が見えて、作業員たちが荷物を運んでいる姿がちらちらと目に入る。
俺は椅子に座った。
手のひらが少し汗ばんでいる。
面接なんて、まともに受けるのはいつぶりだろう。
男性は向かいの椅子に座り、書類を手に取った。
「それでは――」
静かな声で言った。
「面接を始めましょうか」




