第9話 誰にも話せないこと
居間の机に並べた書類を改めて見ながら、俺は湯のみのお茶をゆっくり飲んだ。婆ちゃんはさっきまで横で新聞を読んでいたけれど、俺が真剣な顔をして紙を眺めているのを見て、特に何も言わず台所の方へ引っ込んでいった。多分、ああいう人なりの気遣いなんだろうと思う。婆ちゃんは基本的に豪快だけど、こういうときだけ妙に距離の取り方が上手い。
さっき言われた言葉が、まだ頭の中に残っていた。
「一回飛び込んでみたらええがな」
あれは別に、どこでもいいから適当に決めろって意味じゃないんだろう。婆ちゃんはそんな雑な人じゃない。たぶんあれは、「とりあえず動いてみろ」って意味だ。机の前で悩んでばかりいないで、実際に見て、聞いて、判断しろっていうことなんだと思う。
そう考えると、少しだけ気持ちが整理できた。
「……そうか」
俺は小さく呟いた。
別に今すぐ一つに決める必要はない。人生を左右する大きな決断だと思うと、どうしても構えてしまうけど、よく考えればまだ面接すらしていないんだ。書類の上の情報だけで悩み続けても、正直わかることなんて限られている。
だったら、まずは直接見に行けばいい。
会社の雰囲気。
働いている人たちの様子。
職場の空気。
そういうものは、実際に行ってみないとわからない。
俺は改めて机の上の書類を見直した。
ベルンハイム物流。
リュッケン魔導機械工房。
ベルンハイム建設組合。
アルデン商会ベルンハイム支店。
どれもベルンハイムではそこそこ名前を聞く会社だし、怪しい仕事じゃない。仕事内容はそれぞれ違うけれど、とりあえず面接を受けるだけなら問題はないはずだ。
「よし……」
俺は椅子から立ち上がって、自分の部屋に戻った。
机の上に置いてある鞄から、薄い板状の端末を取り出す。
これは 魔導通信端末――通称「マギリンク」と呼ばれる機械だ。見た目は手のひらサイズの金属板で、表面には薄い魔導ガラスが嵌め込まれている。中央大陸ではここ十数年で急速に普及した通信装置で、都市の通信塔と接続することで遠距離の文書通信ができる。
ザルツブルグなんかではほとんどの企業がこれを使って連絡を取り合っているし、ベルンハイムでも商人や企業の事務所では普通に使われている。俺が持っているのは母さんのお下がりで型は少し古いけれど、通信機能だけなら問題なく使える。
魔導ガラスの表面を軽く指でなぞると、淡い青色の文字が浮かび上がった。
通信画面だ。
「……さて」
俺は椅子に座り直し、指先でゆっくり文字を打ち込んでいく。
まずはベルンハイム物流株式会社。
職業ギルドを通して応募しているから、会社側も俺の名前は把握しているはずだ。面接の日程について相談したい旨を書き、送信する。マギリンクの表面が一瞬淡く光り、通信が完了したことを示す魔導紋が表示された。
続いて、アルデン商会。
それから、リュッケン魔導機械工房。
建設組合は少し事情が違うらしく、現場の都合で日程が決まるとのことだったので、希望日時をいくつか書いて送信しておいた。
四通の連絡を送り終えたあと、俺は椅子の背もたれに体を預けた。
これで、とりあえず第一歩は踏み出したことになる。
「……はぁ」
思わずため息が漏れる。
別に面接が怖いわけじゃない。いや、多少は緊張すると思うけど、それよりも、なんというか……気持ちの問題だ。
正直に言えば。
俺は、こんなことをしたかったわけじゃない。
働きたくないとか、そういう意味じゃない。生活していく以上、仕事が必要なのはわかっているし、いつまでも婆ちゃんの家で世話になっているわけにもいかない。それは頭では理解している。
でも。
本音を言えば。
「……違うんだよな」
小さく呟く。
やりたいことがあるのかと言われれば、正直よくわからない。ただ一つだけ、子供の頃からぼんやり思っていたことがある。
夢、というほど立派なものじゃない。
目標、というほど具体的でもない。
ただの子供の頃の憧れみたいなものだ。
でも、それを誰かに話す気にはなれない。
もし口にしたら、多分笑われる。
「いい大人が何言ってんだよ」
って。
実際、俺だってそう思う。
二十五歳にもなって、そんなことを考えているのはどうかしているんじゃないかって、自分でも思う。
だから誰にも言ったことがない。
母さんにも。
婆ちゃんにも。
友達にも。
誰にも。
俺はマギリンクの画面をぼんやり眺めながら、指先で机を軽く叩いた。
とりあえず、今は現実と向き合うしかない。
夢とか、憧れとか、そういうものは一度横に置いておく。
まずは仕事を見つけること。
それが今の俺にできる、唯一まともな選択だ。
そう自分に言い聞かせながら、俺はマギリンクの画面を閉じた。
静かな部屋の中で、通信端末の魔導灯が小さく光っていた。




