第6話 婆ちゃんの家
家の前に立つと、俺は小さく息を吐いた。
見慣れた家だ。
木造二階建ての、どこにでもありそうな住宅。新興住宅区の端のほうに建っていて、周囲には同じような家がぽつぽつと並んでいる。戦後に整備された住宅地らしく、道は比較的まっすぐで、古い石畳の旧市街とは少し雰囲気が違う。
この家に住むようになってから、もう六年以上が経つ。
思い返してみると、ずいぶん長い時間だ。
高校を卒業してすぐの頃、俺はまだザルツブルグにいた。あの街で生まれて、あの街で育って、あの街が世界の中心みたいに思っていた。大河沿いに広がる巨大な都市で、どこを見ても建物が並び、夜になっても街灯と魔導照明で明るくて、人の流れが途切れることなんてほとんどなかった。
ベルンハイムとは、まるで別世界だ。
ザルツブルグは大都市だ。人口は二百万近いし、企業も研究所も山ほどある。中央業務区には高層の魔導建築が並び、金融取引所や企業本部が集まっている。学術区には巨大な図書館や研究施設があり、学術院の学生たちが行き交っている。河港には大型船が停泊していて、倉庫街には荷物を運ぶ労働者たちが忙しそうに動いている。
とにかく、人も、物も、金も、全部が多い街だった。
今でも時々思い出す。
あの街に住んでいた頃のことを。
特に思い出すのは、丘の上だ。
ザルツブルグの北側には、小高い丘がある。街の中心部から少し離れた場所でそこまで有名な観光地でもないんだけど、街を一望できる場所だった。大河の流れも、河港の船も、中央業務区の建物も、全部見渡せる。
俺はあの場所が好きだった。
学校が終わったあとなんとなく一人で歩いて行くこともあったし、友達と一緒に登ることもあった。特に何をするわけでもなく、ただ街を眺めているだけなんだけど、それでも妙に落ち着く場所だった。
あの頃は、時間がいくらでもあった。
未来のことなんて深く考えなくてもよかったし、毎日が当たり前みたいに続いていく気がしていた。丘の上に座って街を見下ろしながら、漠然と「将来はどうなるんだろうな」なんて考えたりもしていたけど、そのときはまだ、人生がこんな感じになるとは想像もしていなかった。
……まあ。
人生ってやつは、だいたい思い通りにはいかない。
家の扉を開けながら、そんなことを考える。
ベルンハイムは、いい町だ。
ザルツブルグみたいな派手さはないけど、その代わりに落ち着いている。周囲は丘陵と農地に囲まれていて空気はきれいだし、季節の変化もはっきりしている。春になれば市場には果物が並び、秋になれば収穫市が開かれて町中が賑やかになる。
それに、この町の人たちはみんな温かい。
街道都市だから旅人も多いし商人や運送業者も行き交うけど、それでも町全体にどこか穏やかな空気がある。子供が通りを走っていても誰も怒らないし、店の前で立ち話をしている人たちもよく見かける。
俺が子供の頃、この町に来るのは年に数回くらいだった。
母さんの親族が集まるときとか、長めの休みに入ったときとか、そういうタイミングでザルツブルグから列車に乗って訪れていた。子供だった俺にとっては、ちょっとした旅行みたいな感覚だったと思う。
都会とは違う静かな町。
広い空。
畑の匂い。
当時はそれが新鮮で、来るたびに楽しかった記憶がある。
そして、この家の主――
俺の婆ちゃん。
あの人は、とにかく豪快な人だ。
体格が特別大きいわけじゃないんだけど、声が大きくて、笑い方も豪快で、細かいことを気にしない。町の人たちからもかなり慕われていて、買い物に行けば誰かしらに声をかけられているし、市場の商人ともやたら仲がいい。
たぶん、この町で婆ちゃんを知らない人はいないんじゃないかと思う。
親父が事業に失敗して、借金を抱えて、挙げ句の果てに夜逃げして――。
あのとき、俺たちは本当に行く場所がなかった。
ザルツブルグの家は手放すことになったし、母さんはかなり疲れていた。どうやって生活していくのかもはっきりしていなくて、正直なところ、あのときの空気はかなり重かったと思う。
そんな状況で、婆ちゃんはあっさり言った。
「だったらここに来ればいいじゃないか」
まるで当たり前のことみたいに。
金のことも家の広さも、生活費のことも、ほとんど気にしていないような口調だった。普通なら色々心配するはずなのに、婆ちゃんはそんな様子をまったく見せなかった。
「家なんて人が増えたほうが賑やかでいいだろ」
そう言って笑っていた。
そのときの顔を、俺は今でも覚えている。
あの人は、どっしりしている。
お金があるとかないとか、そういう問題じゃない。何があっても動じないというか、「なんとかなるさ」って本気で思っている人だ。実際、俺たちがここに来てからも、婆ちゃんは特に生活を変えた様子もなく、いつも通りの生活を続けていた。
そんな婆ちゃんのことを、俺はずっと好きだった。
こんな俺でも、対等に接してくれる。
説教をすることもあるけど、それはちゃんと理由があるときだけだし、頭ごなしに否定するようなことは絶対にしない。何か言うときは、ちゃんと俺の話を聞いてから言う。
向き合ってくれる、っていうのかな。
あの人は、そういう人だ。
家の中に入ると、台所のほうから声が聞こえた。
「ニコかい?」
婆ちゃんの声だ。
「おう、ただいま」
靴を脱ぎながら返事をする。
すると、台所の奥から婆ちゃんが顔を出した。腕をまくって、エプロンをつけている。どうやら夕飯の準備をしているらしい。
婆ちゃんは俺の顔を見るなり、にやっと笑った。
「職業ギルドはどうだったんだい?」
……。
さすがに、話が早い。
この家では、どうやら俺の就職活動は重要ニュースらしい。
俺は少し肩をすくめながら答えた。
「まあ……いくつか応募することにはなったよ」
婆ちゃんは腕を組んで、ふん、と小さく鼻を鳴らした。
「そうかい。じゃあ、ようやく働く気になったってわけだ」
「うるさいな」
思わず苦笑いする。
でも、その言葉は嫌じゃなかった。
この家に帰ってくると、なんとなく肩の力が抜ける。
たぶんそれは――
ここが、ちゃんと帰る場所だからなんだろう。




