2.犬
耳許ですすり泣く声が聞こえる。小さな手が服の裾をぎゅっと握ってきて、自分もその小さな背中を抱き締めた。
「たつみくん、こわいよ⋯」
「だいじょうぶ。ぼくがいるから」
「さっきの人、またもどってくる⋯?」
「どうかな。でも、もどってきても、ぼくがまもってあげるからね」
――のことは、ぜったいぼくがまもるから。
――――⋯⋯
ハッと目が覚めて、見慣れない天井に一瞬息が止まりそうになった。
すぐに旅館に来ていることを思い出し、巽はほっと息を吐く。隣を見ると、弓弦が静かな寝息を立てて眠っていた。まだ、どこかあどけなさが残るような寝顔に、ふっと笑みが溢れる。
久しぶりに、嫌な夢を見た。この場所のせいだろうか。
いや⋯。
巽は深く溜息を吐く。原因を探るまでもない。風呂で誘拐事件のことを話したせいだ。
巽は小学校に上がってすぐの頃、誘拐されたことがあった。麻里と一緒に。
巽自身、そのことはほとんど覚えていない。よほどショックだったのか、助かって数日後に、そこだけすっぽり記憶がなくなってしまったのだ。
おかげで大した後遺症がなく、大きな心の傷にもならずに済んだのだけれど、それでも時々、今のような夢を見る。
ずっと守ってあげる。
誘拐された時、麻里にそう約束した。記憶がなくても、そのことはきっと本当だ。
花火の時の罪悪感だけではなく、これも麻里と結婚した理由の1つ。
ずっと、この先も、自分が守ると思っていたのに。
✦✦✦
甲高い悲鳴が聞こえてきて、巽は飛び起きた。
「なに?」
弓弦も寝起きの顔を顰めている。
「フロントの方だな。行ってみるか」
「うん」
皆悲鳴を聞きつけてきたのか、入口の方は人だかりが出来ていた。巽たちは中庭を通ってその方向へ向かう。すると、
「なっ⋯!?」
「⋯⋯ひどい」
そこには、犬の死体が横たわっていた。
刃物で何ヶ所も刺されたようで、真っ白な毛が血で赤く染まっていた。
「うっ⋯」
巽は手で口を押さえてその場にしゃがみ込む。
全身に震えが走った。地面が歪む。耳鳴りがする。
脳内に、記憶の奥底に眠っていた映像がフラッシュバックする。
『なんてひどい⋯』
『誰がやったんだ、こんなこと』
『お母さあん、タロが⋯タロが⋯』
『見ちゃだめよ』
「――たつ兄、たつ兄?」
「っ! あ、あぁ⋯」
「大丈夫? 真っ青だよ」
「⋯大丈夫だ」
「待ってて。水持ってくるから」
近くのベンチに座らされ、弓弦は水を買いに行った。
まだ頭がくらくらしている気がする。さっきの、ふと思い出したあの映像は――。
「はい、お水」
「あぁ、悪い⋯」
すぐに戻ってきた弓弦からペットボトルを受け取り、中身を煽る。チラッと人だかりの方を見ると、警官の制服を着た男がやって来ていた。
当然か。これはもう犯罪だ。ペットへの危害は罪としては器物損壊になるのかもしれないが、人の心情としては殺人と変わらないだろう。
「羽多野」
その時、旅館のスタッフの1人が巽たちの方へやって来た。彼が弓弦の友人なのだろう。
「砂川」
「悪かったな、せっかく泊まりに来てくれたのに」
「いや、砂川が悪いんじゃないし。たつ兄は大丈夫?」
「ああ。悪かった、もう大丈夫だ」
「無理しないでください。ってか、古賀先輩、ですよね?」
唐突に名前を呼ばれて相手の顔を見上げる。頷くもののすぐには誰かわからなかった。
「俺、中学の時同じサッカー部だった」
「砂川って⋯、あぁそうか。思い出した」
「懐かしー。ってか羽多野、お前古賀先輩のことたつ兄なんて呼んでたっけ?」
「うん。兄貴になってからはね」
「ああそっか。なるほどな」
懐かしそうに話をする弓弦たちの横で、ようやく頭の中が整理された巽は、ゆっくりと立ち上がった。
かるかんの死体があった方を、睨むように凝視する。
「たつ兄、どうしたの?」
「⋯弓弦、覚えてるか? 子どもの頃、似たようなことがあった」
「っ、」
弓弦は大きく目を見開く。忘れていてもおかしくないほど小さな頃の話だが、あまりにも衝撃的な事件だったので覚えているのだろう。
「あーそれって、羽多野んちの隣の家の犬が殺されたっていう。確か名前が⋯」
タロ。
「たつ兄、それ、忘れてたんじゃ⋯」
「⋯そうだ。ずっと忘れてた。けど、少し思い出してきたよ」
「⋯⋯」
弓弦と麻里が住んでいたアパートの隣の家にいた柴犬、タロ。
その子が殺されたところから、巽と麻里が誘拐された、あの事件が始まったのだ。




