大学院中退
八月の初め、私は理論物理の勉強が、完全にできなくなった。
少し調子が悪い、ではなかった。
数式を見ても意味が立ち上がらない。論文の一文を読むだけで、頭の中が白くなる。考えようとすると、身体が先に拒否反応を示した。
これ以上、続けられない。
そう思った。
同時に、生活の目途も立たなくなっていた。両親の離婚が決まり、経済的な支援が途絶える可能性が現実味を帯びてきた。研究に集中できない状態で、先の見えない生活を抱えたまま、大学院に居続けることができるのか。冷静に考えれば考えるほど、答えは一つしかなかった。
中退しよう。
八月の初旬、私はそう決めた。
決めた、とはいえ、それは一人で完結できる話ではなかった。
中旬にかけて、私は色々な人に相談した。
最初は家族だった。
母は、私の話を最後まで聞いたうえで言った。「あなたが思う道を進んでいい」。その言葉は、背中を押すというより、私が立ち止まることを許してくれたように感じた。
このとき、実は生活保護の話も出ていた。
それはまだ、現実的な選択肢としてではなく、最悪の場合の話としてだった。それでも、生活を守るために制度がある、という事実が、私の中で初めて言葉になった瞬間だった。
次に相談したのは、先輩たちだった。
強く引き留めてくれた人もいた。「ここまで来たのに、もったいない」「もう少し休めば戻れる」 その言葉が、間違っているとは思えなかった。むしろ、私のためを思ってくれているのが、はっきりと伝わってきた。
一方で、私の擦り切れた気持ちを、そのまま受け入れてくれる先輩もいた。
「もう、十分頑張ったんじゃない?」
その一言で、張りつめていた何かが、ふっと緩んだのを覚えている。
最後に、指導教授に相談した。
教授は、私の話を黙って聞いていた。長い沈黙のあと、ほんの一言二言、「卒業して、進路を決めてからの方がいいと思う」と言った。
私用の卒論は、ほとんど先生が仕上げてくれていた。あとは論文にまとめるだけ。世間的には、あと一歩のところまで来ていたのだと思う。
でも、それすら、当時の私にはできそうになかった。
論文を書く未来は、遠い山脈のようだった。見えてはいるのに、どうやっても辿り着けない場所。
過去の私なら、きっとやれた。
でも、その過去の私は、もうそこにいなかった。
大学の別の教員にも相談し、とりあえず進路を決めよう、という話になった。八月の後半、私は会社の面接を受けた。幸運なことに、ご縁のあった会社があり、九月から入社することが決まった。
それでも、私の決意は変わらなかった。
働くことと、大学院に在籍し続けることを、同時に抱える余力は、もう残っていなかった。
中退届を出すとき、特別な感情は湧かなかった。
解放感も、後悔も、どちらも薄かった。静かな区切りの感覚だけがあった。
大学院を辞めることは、逃げではなかった。
私にとっては、生き延びるための選択だった。
この八月をもって、私は研究者になる道から一度、降りた。
それが正しかったのかどうかは、今でも分からない。けれど、あのときの私にとって、それ以外の選択肢は存在しなかった。
人生は、いつも理論通りには進まない。
八月の終わり、私は何度目かのそれを、身をもってもう一度体験した。




