政治反応 ― 王都の揺れ
――夜明けは、まるで世界が息を潜めるように訪れた。
雨は止んだ。だが王都には、濃い霧が街路を呑み込み、鐘の音すら響かない。
濡れた石畳の上を、葬列のような足音がゆっくりと進む。
王宮中央棟――議事堂。
白大理石の床は、夜通し運び込まれた雨水の跡をまだ拭い切れていない。
その冷たい反射が、天井の高窓から射す曇光を鈍く跳ね返す。
壁際には、黒い礼服と軍服が整列していた。
議員たちの胸には黒い喪章、軍人たちの肩章は沈黙の色に光を失っている。
誰も口を開かない。
誰もが理解している――この朝の沈黙こそが、王国における最初の“儀礼”であると。
部屋の中央、長机の上には、濡れた報告書が数枚。
封蝋の跡が滲み、紙の端にはまだ泥の痕が残っていた。
その中央に置かれた一枚の写し絵――崖下で発見された、ねじれた金属の楔。
誰もそれに触れようとはしなかった。
ただ、濃い霧の向こうから差す曇天の光だけが、静かにそれを照らしていた。
――その朝、王都には鐘の音が鳴らなかった。
悲しみは告げられず、ただ霧だけが、すべてを覆い隠していた。
王宮中央棟、議事堂。
夜を徹した報告と議論はすでに終わり、今は沈黙だけがこの部屋を支配していた。
窓の外では、霧が白く渦を巻き、遠くの尖塔さえ霞んで見える。
長机の中央には、濡れた報告書が一枚。
その傍らに置かれた、焦げ跡の残る金属片の写し絵――崖下から回収された“楔”。
紙面に滲んだインクが、まるで血のように黒く広がっている。
しかし、誰もその紙に手を伸ばそうとはしなかった。
議員たちは目を伏せ、軍人たちは無言のまま立ち尽くす。
わずかに響くのは、天井から滴る水の音だけ。
――口にすれば、何かが崩れる。
その空気が、全員の胸に重くのしかかっていた。
「第二王子の行程は軍の管轄下だったはずだ。」
老議員バートンの声は、冷え切った議事堂の空気をさらに凍らせた。
白髪を撫でつけたその指が、机上の報告書を軽く叩く。
「にもかかわらず、補助警備班は不在――説明を願おう。」
向かいの席に座る軍部総参謀、レオン・ハーゲンは、眉ひとつ動かさなかった。
「殿下は視察先で議会派の協力者と接触予定だったと聞く。」
低い声が、重い霧を割るように響く。
「安全確保の要請があれば、軍は即応していたはずだ。」
会議室の空気が、一瞬で硬化した。
誰も椅子を動かさず、誰も息を呑まない。
ただ、バートンの杖が石床を打つ音と、レオンの手袋の軋みだけが、音として残った。
二人の視線が交わる。
笑顔はない。
礼節の皮だけを残した、静かな殺意。
――言葉の刃は、いずれ実際の血を求める。
だがこの場に流れるのは、沈黙という名の血だった。
「――『御車転落による殿下ご逝去』。」
侍従長の声が、淡々と議事堂に響く。
書記官の読み上げる紙の音すら、重く湿っていた。
「王命により、国葬の準備を進める。……事故として処理する。」
一拍の間。
誰も息を吸わない。
霧に閉ざされた窓の向こうで、鐘の音すら鳴らなかった。
やがて、椅子の脚が大理石を擦る音が、ひとつ。
それが、議場に響いた唯一の“反応”だった。
誰も立ち上がらず、誰も反論しない。
――反論が、すなわち“死”を意味することを、全員が知っていた。
沈黙の中、議会派の若い議員が小さく呟く。
「……“事故”、便利な言葉だ。」
だが、その声は誰の耳にも届かないまま、
書類を束ねる音と共に、議場の空気へと溶けていった。
曇天の光が、議場のステンドグラスを鈍く透かしていた。
色を失った陽が、長机の上にぼんやりと落ちる。
そこに――ひとつだけ、空いた席がある。
第二王子の名札が残るまま、椅子は誰にも触れられていなかった。
机の端には、印章と書類。
乾ききらぬインクが、わずかに滲み、黒い影となって沈黙している。
誰もその席を見ない。
見てしまえば、秩序が崩れる。
――それが、この国の“掟”だった。
「王国の慣例――沈黙こそが秩序。
問いを立てる者は、不安定とみなされる。
だから誰も、真実を問わない。」
霧が窓を覆い、外の世界さえ曖昧になる。
議場の空気は、まるで棺の中のように冷たく、静かだった。
王宮の最奥――厚い帳の向こう、静寂が支配する寝所。
香の煙が細く立ちのぼり、白布に包まれた国王は浅い呼吸を繰り返していた。
外の雨音も、ここまでは届かない。まるで時間そのものが、彼の眠りを守っているかのようだった。
侍医が蝋燭の火を確かめ、枕元に置かれた報告書へと視線を落とす。
――そこには、まだ封蝋が割られていない。
彼は一瞬、唇を開きかけて……何も言わず、帳をそっと閉じた。
光がゆっくりと遠のく。
部屋の奥、わずかに揺れる燭火だけが、生の証のように震えている。
「王はまだ、知らない。
この国の未来を背負う光が、昨夜、崖の底で消えたことを。」




