肉弾戦 ―「言葉よりも、拳が速い」
アランの右足が、石床を打った。
乾いた衝撃が赤光の膜を震わせ、波紋が床を這うように広がっていく。
空気がわずかに軋み、魔導陣の線が淡く共鳴した。
彼の上体は静止している。だが眼だけは、揺らぎもしない焦点でルークの喉元を射抜いていた。
狙いは一点――迷いを許さぬ軍人の視線。
胸の奥ではまだ、言葉で止められるという祈りが微かに息をしていた。
しかし、その祈りを裏切るように、身体は勝手に動く。
信念が行動へと変換されるまで、ほんの一拍。
その一拍が、兄と弟を隔てる最後の距離だった。
ルークの瞳がかすかに収束する。分析の光。
アランの筋肉が緊張し、空気が刃のように研がれていく。
――静寂が切り裂かれる寸前。
「理想の語彙が尽きたとき、身体は意思を語る。」
アランの手が閃いた。
床を蹴る音と同時に、彼の右腕が一直線に走る。狙いはルークの右肘――力を奪うための制圧動作。殺さずに止める、その一点に全ての重心を乗せていた。
だが、触れるよりも早く、空気がねじれた。
ルークの肘が半拍早く“回転”し、関節の流れが逆転する。
アランの掌に伝わる力が、思考よりも先に裏返り、次の瞬間には彼の体勢そのものが崩されていた。
金属の軋みのような風音――それが衝撃の代わりだった。
互いの身体がぶつかるより先に、空間そのものが鳴った。
ルークの動きには、呼吸も、溜めもない。
ただ淡々と、最短距離の演算が肉体を通って実行される。
その正確さは、芸術的ですらあった。
アラン(心中):「……こいつ、反応が速すぎる!」
ルーク(演算思考):「兄上の行動予測、誤差――〇・三秒。修正完了。」
赤光が二人の間を走り抜ける。
動作の余波が床に残る波紋だけを残して、時間が再び張り詰めた。
空間が鳴っていた。
拳と拳がぶつかるたび、魔導管が悲鳴を上げ、壁面のパネルが赤光の火花を散らす。
衝突の一瞬ごとに、空気が裂ける。
ルークの蹴りは無駄がない。
回転角、軌道、踏み込み――その全てが、まるで方程式の解をなぞるような正確さだった。
それは戦闘ではなく、計算の結果。
一つ一つの動作が、完璧な数値で組み立てられた“構造体”の運動だった。
アランはそれを受け流すたびに、体勢を削られていく。
受け、捌き、また受け――だが、剣は抜かない。
その拳も、殺すためではなく“止める”ために動く。
彼の選択は、未だ人間のそれだった。
赤光が瞬くたび、ルークの影が長く伸び、アランを包み込むように揺れる。
高周波のノイズが背景を満たす。
それは魔力干渉の音であり、理性の崩壊の前触れでもあった。
アランの呼吸が荒くなる。
肺が熱を持ち、汗が頬を伝う。
それでも彼は歯を食いしばり、拳を握り直す。
目の前の弟は、呼吸一つ乱さない――まるで“呼吸のアルゴリズム”に従って動いているかのようだ。
生身と構造体。
情と計算。
互いの拳が、もはや思想の延長としてぶつかり合っていた。
アランの拳が空を切る。
その反動で視界が揺れ、赤光が滲む。
ルークの反撃は、わずかに遅れてやってきた――にもかかわらず、速い。
理屈に反する速さ。計算された暴力。
腹部に一撃。
衝撃が背骨を抜け、鉄骨のような音が空間を走る。
アランは息を詰め、膝を折りながらも、絞り出すように叫んだ。
「こんな力……いつの間に――!」
その声に、ルークは眉一つ動かさず答える。
冷静な観測者の声で。
「研究対象を壊すには、耐久実験も必要ですから。」
その言葉が放たれた瞬間、アランの心臓がひとつ強く跳ねた。
“研究対象”。
それは、世界のことではない。人間のことだ。
兄弟であった時間の全てが、一言で切り捨てられる。
――もう、この弟は“誰か”ではなくなっている。
アランの胸を、怒りではなく恐怖が締めつけた。
目の前のルークは、人間の姿をした“構造体”だ。
理性と論理が極限まで精製され、感情の不純物を一滴も残さない。
それでもアランは、拳を下ろさない。
まだ――まだ取り戻せると信じている。
彼にとってのルークは、観測対象などではなく、“弟”のままだった。
ルークの瞳が、一瞬だけ兄を映す。
だがその光は、記録の反射。
そこに“理解”も、“情”も存在しなかった。
アランの拳が、空間の抵抗を突き破った。
衝撃が掌の骨を通して伝わる――確かな手応え。
次の瞬間、ルークの頬がわずかに歪み、赤光が散った。
鈍い音が、王城の中枢を震わせる。
弟の身体が、弾かれたように後方へ飛ぶ。
その軌跡を追うように、光の粒子が流線を描き、壁面の制御盤に激突。
――ガシャンッ!
水晶ガラスが砕け、内部の魔導回路が露出する。
赤、青、白――異なる魔力波が衝突し、暴発寸前の閃光を放つ。
その光の中で、ルークの姿が一瞬、透けて見えた。
骨格、筋線維、そして胸元に埋め込まれた小型の魔導核が、赤い閃光の中に浮かび上がる。
警告音が重なった。
電子的な悲鳴のような高音。
それに続く、地鳴りのような低周波。
――《MAGICAL CORE – STABILITY LOSS 32%》
制御盤の表示が赤く点滅し、空気が震える。
床の紋章が歪み、魔力の流れが乱れ始める。
アランは拳を握ったまま、荒い息を吐く。
「……ルーク!」
だが、その声に応えるように、ルークの唇がゆっくりと動いた。
頬に血のような赤光を垂らしながら、静かに笑う。
「いいですね。――ここからが、臨界です。」
その瞬間、空気が弾けた。
兄弟の戦いは、言葉を超えた“破壊の式”へと変わる。




