第二王子の死 導入 ― 風雲の予兆
灰色の雲が王都の空を覆っていた。
初夏とはいえ、陽の光はどこにも届かず、空気には湿り気を帯びた冷たさが混じっている。
風はなく、音という音が吸い込まれるように消えていく――ただ、遠くでくぐもった雷鳴が、雲の向こうをゆっくりと這っていた。
王城の中庭は、いつもの華やかさを失っていた。
手入れの行き届いた花壇の花々でさえ、朝露を含んだまま重たげにうつむき、噴水の水面は曇天を映して鈍く揺れている。
空も、水も、風さえも、まるで“静止”していた。
そんな中を、数人の従者と近衛騎士たちが無言で行き交う。
彼らの靴音が石畳に響くたび、その音は濡れた空気に吸われていった。
まるで王城全体が、これから起こる何かを予感して息を潜めているかのように。
馬車発着場には、黒塗りの王族専用馬車が一台。
白い紋章旗が微かに揺れ、曇天の下で灰色に見えた。
遠くの塔から鐘が三度鳴る。
それは、第二王子ルーク・アーレンの出立を告げる音――そして、静かな別れの合図だった。
噴水の水滴が、ひとつ、音もなく弾ける。
その瞬間、空の奥でまた雷が鳴った。
王都の朝は、いつになく重く、鈍い幕を下ろしていた。
――その日、王都の空は、いつになく重かった。
風は止み、空を覆う雲は鉛のように垂れこめていた。
遠くで、雷鳴がくぐもった音を立てる。
だが雨は降らず、ただ、空気だけが張りつめている。
人々の声は消え、馬のいななきさえも遠い。
石畳に響く足音がやけに鮮明で、その一つひとつが城の静けさを際立たせていた。
まるで世界そのものが、何かを待っている。
それが、嵐か、崩壊か、あるいは“始まり”なのか――誰にも分からない。
城の塔を渡る風見は動かず、旗は垂れ下がったまま。
王都を包む静寂は、祈りではなく、予感のように冷たかった。
その静けさの中で、ただ一つの音――遠雷だけが、ゆっくりと、王城の石壁を震わせていた。
中庭の空は、まだ朝だというのに薄闇を孕んでいた。
噴水の水面は曇り空を映して鈍く揺れ、花壇の花々も湿った風に項垂れている。
馬車発着場には、見送りの者たちが静かに列をなしていた。
侍従長が礼を取り、議会代表の老臣たちは沈んだ顔で言葉を交わす。
その中で、第二王子ルークだけが穏やかな笑みを保っていた。
軽装の軍服に外套を羽織り、白い手袋の指先が朝の光を掠める。
けれど、その目の奥には、誰にも悟らせぬ影があった。
それは疲労の色か、あるいは――覚悟の翳りか。
「では、数日で戻る。父上の容態、よろしく頼む。」
軽くそう言って、ルークは弟に視線を向ける。
アランは無言で頷き、わずかに眉を寄せた。
その仕草の奥に、言葉にならない不安があることを、兄は察していたのかもしれない。
馬車の扉が閉まり、車輪が石畳を軋ませる。
ゆっくりと動き出した馬車の窓から、ルークがもう一度手を振った。
その笑顔はあまりにも自然で――あまりにも、最後の別れのように静かだった。
アランはその背を見送りながら、胸の奥で微かな音を聞いた。
――どこかで、何かが壊れる音がした。
王城の中庭は、重く垂れ込めた雲の下に沈んでいた。
初夏の風は湿り気を帯び、噴水の水面は鈍く光を返す。
見送りのために集まった侍従長と議会代表たちは、誰もが控えめに口を閉ざしていた。
馬車の傍らに立つ第二王子ルークは、軽装の軍服に外套を羽織り、穏やかな笑みを浮かべている。
その立ち姿は、まるで晴れの日の祝典に向かう者のように見えた。
しかしアランの目には、その笑顔の裏にかすかな疲労と、固く結ばれた決意の影が見えた。
「では、数日で戻る。」
ルークは軽やかに言い、手袋の指先で外套の裾を整える。
「父上の容態、よろしく頼む。」
アランは無言のまま、短く頷いた。
言葉を返そうとしても、喉の奥が重く閉ざされていた。
兄は小さく笑って、まるでその沈黙さえ理解したように手を振る。
馬車の扉が閉まり、蹄の音が湿った石畳に響く。
ゆっくりと動き出した馬車が城門へ向かう。
その窓から、ルークは最後まで笑顔を崩さずにいた。
アランはその背中を見送りながら、空を仰ぐ。
灰色の雲が流れ、遠くで低い雷鳴が響いた。
――胸の奥で、何かがひび割れる音がした。
それが“予兆”だと気づいたのは、ずっと後になってからだった。
馬車の準備が進む中、アランは視線を横に流した。
車輪の点検にあたる従者たち、その背後で控えるのは――たった三名の近衛騎士。
彼らの鎧は磨き上げられ、王家の紋章が朝の光を鈍く反射している。
だが、いくら目を凝らしても軍部の兵士の姿は見当たらなかった。
「補助警備班は?」とアランが問うと、侍従長がやや困ったように答える。
「今回は……軍の同行は見送られました。議会が“政治的圧力と受け取られかねない”と申しておりまして。」
その言葉に、アランの眉がわずかに動いた。
(……軍が動かぬ視察? 妙だな。)
形式上は中立を装った決定。
だが、その裏でどちらの派閥も責任を取りたくない――そんな空気が透けて見えた。
ルークはそんな弟の視線に気づいたのか、馬車へ乗り込む直前、振り返って笑う。
「心配いらないさ、アラン。道中は穏やかなものだよ。」
その軽い調子が、かえって不安を濃くした。
アランはただ、無言でその背中を見送る。
馬車の扉が閉まり、蹄の音が遠ざかっていく。
湿った風が頬を撫でた。
――それは、まるで何かを告げるように冷たかった。
出立の直前、ルークがふと足を止めた。
馬車の扉に手を掛けたまま、振り返ってアランへ軽やかに声をかける。
「アラン、君もたまには外へ出るといい。
模型ばかりじゃ、世界が狭くなるぞ。」
柔らかな声音。だがその奥には、どこか“探るような響き”があった。
アランは少しの沈黙のあと、低く応じる。
「……俺には、模型のほうがまだ整合性がある。」
ルークは目を細め、短く笑った。
「それも正解だな。」
――軽い会話。穏やかな兄弟のやり取り。
だがアランの胸には、微かなざらつきが残る。
その笑顔の裏に、何かを隠している。
そう思わずにはいられなかった。
馬車の扉が閉まる音が、やけに重く響く。
遠雷が空の奥で低く唸り、湿った風が庭を通り抜けた。
ルークの姿が視界から消えても、アランはしばらくその場に立ち尽くしていた。
――まるで、次に訪れる“音”を、どこかで予感しているかのように。
ルークが馬車の踏み台に足を掛けたその瞬間――。
空の奥で、低く、重たい雷鳴が鳴り響いた。
馬がびくりと身を震わせ、手綱を握る御者が短く息を呑む。
「……っ、これは。」
誰かの呟きが風に消える。
ルークは一瞬だけ空を仰ぎ、薄く笑った。
「雨の前に出られてよかったな。」
その言葉が、皮肉のように軽く響く。
だがすぐに、灰色の雲の隙間から冷たい雫がひとつ、ふたつ。
アランの頬を打った。
(……空まで、見送りを嫌がっているようだな。)
アランは誰に言うでもなく、胸の内でそう呟いた。
馬車の扉が閉まり、蹄の音が石畳を叩き始める。
雨脚が強まり、音が溶け合っていく。
その音が遠ざかるほどに――
アランの胸の奥に、きしむような“ひび割れ”の感覚が広がった。
(どこかで、何かが壊れる音がした気がする――。)
空の雷鳴が再び響く。
それはまるで、王都の運命そのものを告げる“序曲”のようだった。
馬車の影が、ゆっくりと城門の向こうに消えていった。
石畳の上に残るのは、雨に滲んだ車輪の跡と、湿った風の余韻だけ。
アランはその場に立ち尽くし、静かに顔を上げた。
厚い雲の切れ間から、わずかに光が差し込む。
それは細く、頼りなく――けれど確かに、ルークの進む南の方角を照らしていた。
「兄上……」
小さく漏れた声は、雨音にかき消される。
「その光が、帰り道にも残っていればいいが。」
言葉のあと、遠くで再び雷鳴が轟いた。
城の塔がその音を受けて低く震える。
アランの外套が風に揺れ、視界が暗転する。
――次に響くのは、崖下で木々を裂く轟音。
それが、第二王子の死の始まりだった。




