第一声 ― “言葉の導火線”
赤光の霧が、空間のすべてを満たしていた。
だが、その光の下で――何かが変わる。
王城の鼓動が、一瞬だけ止まった。
空気が沈み、室内の圧が僅かに歪む。
まるで、次の拍を待つ“心臓”のように。
カメラが寄るように、アランの胸元が映る。
鎧の継ぎ目から漏れる熱気。
金属と皮膚の間を伝って、汗が一粒――静かに落ちた。
そのわずかな滴が、沈黙を切り裂く最初の“音”になる。
喉が鳴る。
しかしそれは声ではない。呼吸の震えだ。
焦げた空気が胸を満たし、吐くことも、吸うこともできない。
沈黙の中で、彼は呼吸そのものと戦っていた。
赤光が微かに揺れる。
鼓動が戻る。
だが、先ほどまでのリズムとは違っていた――重く、早く、何かを告げるように。
その瞬間、世界が“音を持つ”前の状態に戻る。
光と影、呼吸と鼓動。
その狭間に、言葉がまだ生まれない空白があった。
「沈黙は、爆薬の導線だった。
誰が先に息を吸うか――それだけで、世界の形が変わる。」
唇が、ゆっくりと動いた。
それは声というより、記憶の亡霊を呼び起こす動作に近い。
アランは喉を震わせながら、その名を口にした。
――ルーク。
たった二音。
だが、その短い呼び名に、五年分の重さが詰まっていた。
罪の時間、沈黙の夜、諦めと祈りと、数え切れない後悔。
それらが一度に胸から押し出される。
声が空気を震わせた瞬間、赤光が一拍乱れた。
まるで魔導回路そのものが、その名に反応したかのように。
床下を走る光脈がわずかに弾け、壁を伝う符文がちらつく。
ルークの背が、わずかに傾く。
しかし振り向かない。
アランの目には、その僅かな動きが、残酷なほど“他人のもの”に見えた。
そこにいるのは確かに弟だ。
だが――その名を呼んでも、もう「弟」としての気配は返ってこない。
彼の声には怒りも悲しみもない。
ただ一つ、確認の意図だけ。
この存在が、まだ“ルーク”であるのかを、確かめたかった。
アラン(低く、絞り出すように):「……ルーク。」
(間)
「何をしている。」
沈黙が、また落ちる。
その名が空気に溶けていく音すら、城が飲み込んだ。
ルークは振り返らなかった。
ただ、制御盤に置いた指先が、わずかに動いた。
その瞬間、透明な水晶盤の内部で、淡い光が螺旋を描く。
光は指先から波紋のように広がり、盤面全体をゆっくりと満たしていく。
まるで兄の声――「ルーク」という音が、直接この装置に触れたかのようだった。
カメラはルークの背越しにその様子を捉える。
盤面の奥、魔力核が鈍く脈打ち、低い唸りを上げる。
それは人間の心臓の鼓動に似ているが、あまりにも無機質で、冷たい。
ルークの表情は見えない。
だが、その背中には一片の感情も浮かばない静寂があった。
彼にとって、兄の呼び声はもう“言葉”ではない。
感情ではなく、刺激。
呼応すべき信号。
まるで、プログラムが入力を受け取ったときのように――。
水晶盤の中央で、光がひときわ強く瞬いた。
赤い波が空間を這い、床を伝ってアランの足元まで伸びる。
それはまるで、二人を隔てる距離を“回路”として繋ぐようだった。
低い共鳴音が空気を震わせる。
アランの鎧が微かに鳴り、光がその輪郭を照らす。
ルークの指先が止まる。
呼吸は一定のまま――まるで何も起きていないかのように。
ただ、空間の密度だけが、確実に変わっていた。
ルークの肩が、わずかに動いた。
笑った――ように見えた。
だがそれは唇の動きではなく、赤光に揺れる影の歪みだった。
光源が角度を変え、頬の片側にだけ淡い陰が落ちる。
それは人間の表情ではなく、機構が光を反射した結果にすぎない。
彼の存在そのものが、もう“肉体”と“構造”のあわいにあるようだった。
ルークは背を向けたまま、一度だけゆっくりと息を吐いた。
静かな呼吸が、制御盤の振動と同期する。
その一拍のあと――
「兄上。ようやく、来ましたか。」
その声は、懐かしさを含まなかった。
響きの奥には、感情ではなく“完了報告”の硬質な響きがあった。
まるで、何者かに命じられた台詞を正確に再生しているかのよう。
アランは、息を止める。
声を聞いたのに、“弟の声”として認識できなかった。
そこにあったのは、人ではなく装置が言葉を発したような、異質な共鳴。
次の瞬間、制御盤の水晶がひとつ、澄んだ音を立てる。
――カン。
硬質な響きが空気を裂き、赤光がひときわ強く明滅した。
それはまるで、“会話開始”を告げる合図音のようだった。
世界が、静かに切り替わる。
赤光が、まるで息を吹き返したかのように強く瞬いた。
その明滅に合わせて、水晶盤の紋様が脈打つ。
空間全体が、ひとつの巨大な心臓の中で鼓動しているようだった。
アランの言葉が放たれた瞬間――沈黙は形を失い、音へと変質した。
それは単なる“呼びかけ”ではない。
人間としての理性、感情、祈り――それらを束ねた「問い」の衝撃。
赤光が一度、微かに揺らぐ。
まるで世界そのものが、その言葉を理解しようとしているかのように。
しかし返ってきたのは、冷たく研ぎ澄まされた応答。
ルークの声は、響きというより“信号”だった。
水晶の共鳴と同調し、一定の波形を持って空気を震わせる。
それは“人”の声ではなく、“機構”の声――。
アランはその差異を肌で感じた。
弟の返答が「意思」ではなく「構造」として響いている。
声と声が交わる代わりに、世界の仕組みが接続される感覚。
沈黙が切れた瞬間、二人の思想の回路がつながってしまった。
ナレーション:
「言葉は、導火線だった。
火はすでに点いていた。
ただ、誰も――止めようとはしなかった。」
赤光が再び強く明滅する。
その瞬間、空気が熱を帯び、金属の表面がわずかに歪む。
“対話”が、“起動”に変わった。
そして、静寂の世界に戻ることは、もう――なかった。




