捜索 ―「不在の私室」
重い扉が、金属音を立てて開かれた。
警備兵たちが号令とともに一斉に雪崩れ込み、剣の柄に手をかけたまま室内を見回す。
――静寂。
そこには、誰の気配もなかった。
「誰もいません! 机の上……整理されたままです!」
「転移痕、なし。残留魔力もごく微弱です!」
短い報告が続くたび、虚ろな空気が室内に広がっていく。
まるで、そこにいた“誰か”の存在だけが、抜け殻のように残されているかのようだった。
カミラが一歩、音もなく部屋の奥へ進む。
窓辺のカーテンが大きくはためき、朝の風が吹き込む。
薄い布が、彼女の腕に絡みついて離れない。
「……自力で消えた、ということですね。」
その声は、報告ではなく、呟きだった。
逃亡ではない。
――意志をもって“消えた”のだと、部屋そのものが語っていた。
部屋の空気は、まだ人の温度をわずかに残していた。
机の上には、開かれたままの分厚い本。古代術式の章でページが止まり、指でなぞられた跡がうっすらと残っている。
その傍らに、冷めきった紅茶のカップ。
湯気はすでに失われ、代わりに、わずかに漂う芳香だけが“ついさっきまでここにいた”という現実を告げていた。
朝陽が差し込み、カップの影がゆっくりと机上を伸びていく。影の形が、時の流れそのもののように長く、細く、儚い。
壁際には、複数の紙図面が無造作にピン留めされている。
そこに描かれているのは、魔導回路の複雑な構造図。
細密な青の線の中、ひときわ異質な赤い筆跡が一筋――“波形制御”と記されていた。
それはまるで、何かを未完のまま残した手紙のようだった。
この部屋には、去った者の気配ではなく、“思考の続き”だけが静かに残されていた。
廊下の奥から、硬い靴音が近づいてきた。
その音を聞いただけで、兵士たちは姿勢を正し、背筋を伸ばす。
次の瞬間、扉の影からアランが現れる。
夜を徹しての指揮のせいか、頬には疲労の色が濃く、瞳には焦燥の光が宿っていた。
兵士たちは一斉に敬礼する。だが、アランは応えず、静かに部屋へ足を踏み入れる。
その視線が、空になった椅子と開かれた書物をなぞるように滑っていく。
「……何も?」
低く問う声は、すでに答えを知っている者の響きだった。
カミラが一歩前へ出て、淡々と報告を返す。
「はい。物理的な逃走経路は不明です。
ただし、ここ数日、私室内で微弱な魔力干渉の反応がありました。
転移陣の残滓ではなく……何かの“起動準備”に近い波形です。」
アランは黙したまま、窓辺へ歩み寄る。
外では、霧が王都を覆い尽くしていた。
朝陽はまだ届かず、白い海のように揺らめく霧の中に、街の灯だけがぼんやりと浮かんでいる。
その光を見つめながら、アランの唇がわずかに動いた。
それは祈りにも、呪いにも聞こえぬほど小さな声だった。
カーテンの隙間から、朝の風が忍び込んだ。
薄い布が揺れ、冷気が室内の静寂をさらに際立たせる。
アランはその風の先――机の上に置かれたカップを見下ろした。
紅茶は、まだ半分ほど残っている。
飲みかけのまま冷えきったその表面に、窓の光が淡く反射していた。
――まるで、さっきまでこの部屋に主がいたことを告げる、最後の痕跡のように。
「……ルーク。お前は、どこまで読んでいた。」
アランの声は、風にかき消されるほど低かった。
しかしその響きには、兄としての嘆きと、継承者としての恐れが混ざっている。
彼の視線が、机上の一冊の書物に移る。
開かれたままの頁。そこに記された古い術語。
インクの掠れた文字が、朝の光を受けて微かに浮かび上がる。
――“波形制御理論・終式:呼応する器”
アランの瞳がわずかに揺れた。
それが何を意味するのか、理解するには時間がかかる。
だが彼の直感は告げていた。
この頁が、“ルークの消失”と、“これから訪れる何か”を繋ぐ唯一の鍵である、と。
「姿を消すとは、逃げることではない。
――ある者にとっては、“次の舞台へ移る”という意味を持つ。」
その言葉のように、部屋は静まり返っていた。
誰もいない空間に、紅茶の香りと古書の埃の匂いだけが残る。
カメラが、ゆっくりと窓辺を越えていく。
外の霧はまだ濃く、王都の街並みを覆い隠していた。
その白い海のような霧の向こう――
ひと筋の赤い光が、空をかすめた。
それは遠く、目を凝らさねば見えぬほど微弱な波長。
けれど確かにそこにあり、わずかに“呼吸”している。
まるで、見えざる意志が次の頁をめくるかのように。




