決断 ―「兄の命令」
夜の名残がまだ空に沈んでいる。
王城・執務棟の上階――アランの私室兼執務室は、淡い光に満たされていた。
窓の外では、霧が薄く流れ、夜明けの鐘の余韻がまだ石壁を震わせている。
交代の衛兵が廊下を通る足音が、遠くから一定の間隔で響いてくる。
それ以外には、音がなかった。
机の上には、未署名の命令書と、夜明けの光を受けて冷たく光る鋼のペン。
その隣には報告書の束が積まれ、紙の角が整然と揃えられている。
室内の空気は張り詰めていた。
誰もいないのに、まるで見えない目がその決断を監視しているようだった。
わずかに風が窓を揺らし、紙が擦れる音がした。
その微細な音が、この部屋の沈黙をいっそう際立たせる。
アランは机の前に座り、手を動かさないまま、ただ一点を見つめていた。
夜の思考の残滓がまだ胸に渦巻いている。
光が冷たい――決断というものは、いつも夜明けと同じ顔をしている。
執務室の空気は、夜の名残をまだ抱いていた。
アランの机の上には、報告書と拘束命令の草案が並んでいる。
だが、その筆先は動かない。
白紙の余白を見つめたまま、彼は深く息を吸い、吐いた。
夜を徹して考え続けた思索の痕が、目の下に濃い影を落としている。
蝋燭の火はとうに尽き、窓の向こうには薄灰色の光が滲み始めていた。
霧が城壁を覆い、その流れがゆるやかに窓辺をなぞる。
まるで、王城そのものがこの沈黙を見張っているかのようだった。
指先が紙の端をかすかに押さえる。
そのわずかな動きさえ、音を立てるのがためらわれるほど、室内は静かだった。
ナレーション:
「決断とは、時に声を出すことよりも――沈黙を破ることのほうが重い。」
アランの瞳がわずかに揺れた。
そして、彼の沈黙が、ゆっくりと重みを帯びていく。
侍従は、言葉を飲み込んだまま机の傍らに立ち尽くしていた。
その背後では、護衛兵が静かに控えている。
鎧の継ぎ目がきしむ気配すらなく、部屋全体が凍りついたように動かない。
アランは深く息を吸った。
指先がわずかに震えるのを押さえ込みながら、机上の命令書にペンを下ろす。
白い紙の上には、黒々とした文面――冷徹な決定の印字が並んでいた。
『王弟ルーク・エルデン殿下 ――事情聴取のため、一時拘束を命ず。』
その文字を見つめたまま、アランはわずかに唇を噛む。
そして、震える筆跡で自らの名を記す。
書き終えた瞬間、静寂の中に――ペン先が紙を離れる乾いた音が響いた。
それは、命令書の成立を告げる音であると同時に、
ひとりの兄が、自らの情を封じた音でもあった。
アランは静かに書類を閉じた。
目の前の命令書をしばし見つめ、まるでそれが“罪状”のように感じているかのようだった。
やがて、低く、押し殺した声で言葉を落とす。
「……命令を出せ。抵抗は想定内とする。」
室内の空気が、ぴたりと止まった。
侍従は息を呑み、ほんの一瞬だけ視線を伏せる。
「殿下、それは……本当に……?」
アランの瞳がゆっくりと侍従を捉えた。
その視線には迷いも怒りもなく、ただ“責務”の光だけが宿っている。
「これは兄としてではない。“王位継承者”としての命だ。」
その声は、夜明けの冷気のように冷たく澄んでいた。
侍従は静かに頭を垂れ、両手で命令書を受け取る。
その指先は、忠誠の証として差し出されたものでありながら――かすかに震えていた。
外では、衛兵の交代を告げる足音が響き始める。
新しい朝の訪れが、ひとつの“終わり”の宣告のように感じられた。
護衛兵が無言で敬礼し、扉の向こうへと消えた。
厚い扉が静かに閉じられると、室内には重い静寂だけが残る。
朝の光が、ゆっくりとカーテンの隙間から差し込み、机の上を淡く照らした。
インク瓶がその光を反射し、かすかにきらめく――まるで、決意の痕跡を封じ込めるかのように。
アランは机に片手をつき、深く息を吐いた。
その指先が、まだ署名の震えを覚えている。
しばらくして、彼は拳を握りしめる。
静かに、しかし確かに。
「……ルーク。お前を救うために、まずは縛らねばならんのか。」
その呟きは、誰に届くこともなく、朝の光の中に溶けていった。
外では鐘の音が二度、遠く響く。
それはまるで、兄と弟の間に下された“運命の合図”のようだった。
窓辺に立つアランの背を、朝の光が静かに包む。
机の上には、まだ乾ききらぬインクの跡。
命令書の端が微かに揺れ、紙の擦れる音が、まるで誰かの呼吸のように響いていた。
彼は動かない。
ただ、己の決断の重さを噛みしめるように、指先で机の縁を押さえている。
外では、衛兵たちが命令を受け、足音を整えて動き出す。
王城という巨大な機構が、ひとつの命令文を軸に、ゆっくりと動き始めていた。
「命令という言葉には、慈悲も情も書き込めない。
だが、それでも彼は署名した。
――その一筆が、兄弟の絆を“法”という刃で切り裂いたことを知らぬまま。」
朝の光が、命令書の上の署名を照らす。
そこに滲むのは、王の決意ではなく、兄の祈りの残響だった。




