報告 ―「決定的な兆候」
夜明け前の王城は、まだ眠りの中にあった。
だが、警備局の会議室だけは例外だった。
窓の外、淡く差し込む青灰色の光が、部屋の空気を氷のように冷たく照らしている。
長机の中央に、カミラが静かに歩み出た。
その手には、一束の分厚い報告書――表紙には黒々とした文字が記されている。
『魔力波長観測記録(時刻:02:37)』
彼女は無言のまま、書類を机の上に置く。
厚紙が木の天板を叩く音が、やけに重く響いた。
背後に控えた技術官が、魔導観測装置の制御盤を操作する。
低い共鳴音とともに、壁面に淡い光が走った。
やがて空中に投影された波形――青の線が静かに流れていく。
数秒後、その穏やかな線の中に、ひときわ鋭い赤の尖塔が現れた。
それは一瞬の閃光のように現れては消えたが、誰の目にも焼き付くほど鮮烈だった。
技術官:「……ここです。午前二時三十七分。通常波形から逸脱した“赤波長”が検出されています。」
会議室の空気がわずかに動いた。
誰かの衣擦れ、誰かの息――そのすべてが、音として残酷なほど鮮明に響く。
カミラは一歩前に出て、投影された波形を指先でなぞるように示した。
その動作は冷静だったが、瞳の奥には抑えきれない警戒の色がある。
カミラ:「外部からの干渉信号を解析したが、該当はありません。
――発信源は城内。……しかも、最上層の外壁です。」
その言葉を境に、部屋の空気が一変した。
技術官たちは息を呑み、警備隊長が椅子を軋ませる。
無言の圧力が部屋全体を包み込み、誰もが互いの顔を見られずにいた。
“内部発信”。
その響きが、まるで鋭い刃のように静寂を裂いていた。
アランの視線が、壁面に浮かぶ波形の一点に釘付けになる。
赤い線が、青の海の中に刺し込むように屹立していた。
その瞬間、彼の脳裏には――昨夜、霧に包まれた外壁の上で見た、弟の背中が蘇る。
夜風に外套を揺らしながら、王都を見下ろしていたあの姿。
静かに、何かを決断するような目。
アラン(心の声):「……外壁。あの夜も、同じ場所にいた。」
息を呑む音さえ、周囲には響かなかった。
アランはゆっくりと顔を上げ、掠れた声で言葉を押し出す。
アラン:「その時間――ルークが、外壁にいた。」
次の瞬間、会議室が凍りついた。
誰も動かない。誰も息をしない。
魔導装置の魔力回路が低く唸り続け、その振動がまるで心臓の鼓動のように響く。
赤い波形の点が、青の線の中で静止している――それは、“事実”そのものの形をしていた。
カミラは、無言のまま報告書を閉じた。
乾いた紙の音が、張り詰めた空気を断ち切る。
彼女はゆっくりと立ち上がり、真正面からアランを見据える。
その瞳には疲労の色が浮かびながらも、揺るぎのない決意が宿っていた。
カミラ:「殿下、これはもう偶然とは言えません。
発信の座標、波長の一致、時間帯――すべてが重なっています。」
アランは短く息を飲み、唇を固く結ぶ。
喉の奥で言葉が詰まり、やっとの思いで絞り出す。
アラン:「……つまり?」
カミラは目を逸らさなかった。
その一瞬の沈黙に、彼女がどれほどの思いを押し殺しているかが伝わる。
やがて、静かに――しかし決定的に告げた。
カミラ:「王弟殿下を拘束すべきです。
事情聴取という名目でも構いません。
今、手を打たねば“内部からの崩壊”が始まります。」
その声は、刃のように冷たく、しかし震えていた。
職務としての冷徹さと、かつて同じ理想を語った青年へのわずかな情――その狭間で、彼女自身が痛みを呑み込んでいる。
アランは何も返さなかった。
ただ、机の上に映る赤い波形の一点を見つめる。
それはもう、誰の言葉よりも雄弁に――裏切りの可能性を語っていた。
警備隊長が、息を吸い込んだ。
だが、声にならない。喉の奥で言葉がほどけ、静寂に飲まれていく。
誰も、次の一言を発せられなかった。
技術官たちは下を向いたまま、机上の波形を見つめている。
赤い線が、冷たい光を放ちながら壁面に揺らめく。
それは、誰も触れられない“罪の証明”のように。
会議室の空気が重い。
誰かが椅子をわずかに動かす音すら、耳に刺さるほど鋭い。
アランは書類を見つめたまま、動かない。
指先がかすかに震える。
その震えが、彼の中に生まれた“決断の痛み”を露わにしていた。
窓の外では、夜が終わりかけていた。
青黒い闇が、ゆっくりと灰色へと変わっていく。
それはまるで――王城の上空に漂う疑念の色が、夜明けにも消えないことを示すようだった。
「正義が義務に変わる時、人はいつも一歩遅れて後悔する。」
その言葉が、誰の声でもなく、会議室の空気に滲むように響いた。
アランは机上の報告書を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
紙の端が、彼の手の震えでかすかに揺れる。
外では、夜明けの光が静かにカーテンの隙間から差し込み、
赤い波形の映像を淡く洗い流していく。
――だが、心の中の赤は、消えなかった。
義務としての決断が、すでに彼の胸を締めつけ始めていた。
それはまだ「命令」ではない。
けれど「後悔」という名の影が、確かに動き出していた。
「アランの胸に、その遅れがすでに始まっていた。」




