兄弟の対峙 ―「信頼の裂け目」
夕暮れの王城は、ひどく静かだった。
中庭の噴水は止まり、鳥の影も見えない。風が通り抜けるたび、橙と紫の境を引くように塔の影が石畳を横切る。
その中央に、アランが立っていた。
手には一束の古びた紙片。指先に力を込めるたび、羊皮紙の焦げ跡がぱらりと崩れ、夕陽に淡く光る。
沈黙の中、遠くで靴底が石を踏む音が響いた。
一歩、また一歩。まるでこの場に呼ばれることを最初から知っていたかのような、迷いのない足音。
やがて、ルークが姿を現した。
細身の体を風が撫で、肩の外套がかすかに揺れる。表情は穏やか――けれど、その穏やかさは人の心が生むものではなく、計算の末に作られた冷静さに見えた。
アランは何も言わずに、紙束を差し出す。
その動きには怒りよりも、むしろ言葉にならない確信の重さがあった。
「これをどう説明する。クロヴィスの理論、そしてお前の署名だ。」
夕陽が傾き、二人の影が長く地面に伸びる。
ルークは紙に視線を落とすことなく、わずかに微笑んだ。
「兄上も見てきたでしょう。僕を犯人に仕立てたい人間がいる。」
その声は柔らかく、どこまでも整っていた。
しかし、アランにはその穏やかさの中に、明確な“防御”を感じ取った。
風が二人の間を通り抜け、焦げた羊皮紙の端を、ひとひら空へ攫っていった。
沈黙が、場を支配した。
止まったはずの噴水から、一粒だけ水滴がこぼれ落ち、石盤を叩く。
その乾いた音が、互いの呼吸の間を裂くように響いた。
アランは眉を寄せ、握りしめた紙片の端を見つめる。
指先が、微かに震えていた。
「では、資料の出所は?」
問いは静かだった。だが、その静けさの底には、刃のような緊張が潜んでいた。
ルークはわずかに目を細め、口角だけを動かす。
「あなたの“信じる正義”が、誰かの設計に利用されているのかもしれません。」
その声音には怒りも挑発もない。
だが、まるで細い針で心臓を刺すような――静かな毒があった。
アランは言葉を失い、視線を逸らす。
信頼を裏切られた痛みではない。
信じることすら、もはや危ういという感覚。
胸の奥で、冷たい痛みがじわりと広がっていく。
(……こいつは、いつから“守られる側”ではなくなった?)
風が吹く。
夕暮れの光が薄れ、兄弟の影が重なり、そしてゆっくりと離れていった。
風が強まった。
中庭の空気がざわめき、紙片の端がぱらぱらと音を立てて宙を舞う。
夕陽の光が、二人の影を石畳に長く引き延ばす。
それは一度、重なり合い、すぐにまた――離れていった。
ルークは一歩だけ踏み出した。
アランの手元にそっと視線を落とし、その手に触れぬまま、指先で紙束を押し下げる。
その動作は穏やかで、まるで兄を諭すようだった。
「兄上。真実を求めるのはいい。――でも、真実がいつも正義とは限らない。」
その声は、風の中でもはっきりと届いた。
柔らかい響きの裏に、決して譲らぬ意志の鋼があった。
アランの拳がわずかに震える。
怒りではない。
理解を拒む、自分自身への苛立ちだった。
「お前は……何を見ている。」
問いは震え、かすれた。
ルークはその言葉に小さく息をつき、目を細めた。
「あなたが――まだ見ようとしないものを、ですよ。」
その一言が、冷たい刃のように胸を掠めた。
短い沈黙のあと、ルークはゆっくりと背を向ける。
夕陽が沈みゆく中、彼の背中は長い影を引きずりながら、ゆっくりと光から遠ざかっていく。
風が再び吹き抜け、紙片が一枚、アランの足元へ舞い戻った。
そこに残るのは、焦げ跡の縁――過去と未来を繋ぐ、黒い痕跡だけだった。
――互いに嘘をついてはいなかった。
だが、真実を語ってもいなかった。
その言葉が、まるで鐘の残響のようにアランの胸中で反響していた。
中庭には、すでに夜の色が満ちている。
噴水は沈黙し、夕刻の余光が石畳にうっすらと残滓を落としていた。
アランは動けず、手の中の資料をただ見つめていた。
羊皮紙の上には、二つの署名。
――《クロヴィス・エルデン》。
――《ルーク・エルデン》。
かつて王家を支えた学術王子と、今その血を継ぐ弟。
その名が並んで記された文字列は、まるで過去と現在が密かに結託し、
未来を欺くための“契約書”のように見えた。
アランは唇を噛む。
紙を握る手に力が入り、焦げ跡が指先を黒く染める。
けれど、それでも真実は掴めない。
風がひとすじ、冷たく吹き抜けた。
その風が、一枚の紙片をアランの指先からさらっていく。
白い羊皮紙は夜気に舞い、くるくると回転しながら空へと吸い込まれていった。
それはまるで――二人の“信頼”そのものが、形を失い、
見えない空へと溶けて消えていくようだった。
闇が完全に落ちたとき、そこに残っていたのは、
誰の声も届かぬ沈黙だけだった。




