虚空の探索 ―「痕跡なし」]
――夜が、終わりかけていた。
王城の外壁を包む霧はまだ濃く、空の端にかすかに群青が滲み始めている。
その静寂のなかで、わずかに響くのは金属の音だけ。
測定機器の端子が石床を擦る乾いた音と、兵士の鎧が軋む音が、
夜の残滓を引きずるように低く響いていた。
南塔から貯水路にかけて、封鎖区域の内部には人の声がほとんどない。
徹夜明けの兵と技術官たちは、互いに言葉を交わすことさえ億劫そうに
淡々と作業を続けている。
測定魔具の針は揺れず、魔力探知の結界も反応を示さない。
塔の壁を照らす魔導灯は一つきり。
白い光が、湿り気を帯びた石壁にぼんやりと反射していた。
それはまるで、
「何も見つからない」という事実そのものを照らし出しているようでもあった。
風が吹くたび、鎧の留め具がかすかに鳴る。
それ以外には、世界が音を忘れたかのような静けさ。
その沈黙の底に――誰もが気づかぬまま、
焦燥だけが、確かに息づいていた。
――南塔地下回廊。
冷たい空気が、石の継ぎ目を伝ってゆっくりと流れていた。
水気を含んだその空気は、喉に重く張りつく。
測定班が黙々と壁沿いに進み、ひとりが膝をついて検知器を当てる。
金属の器材がかすかに唸り、針がわずかに震えた――が、すぐに止まった。
淡い青光だけが、静かに床を照らす。
「……魔力残渣ゼロ、ここも同じです。」
無線越しの声が、湿った空間に乾いた音を立てた。
すぐに別の地点でも、同じ報告。
「南壁側、反応なし。……どうしてだ? こんなに広範囲を走査しても……」
誰もが疲労のせいか、声に抑揚がなかった。
ただ、機械的に測定器を当てては数字を読み上げ、次の壁へ移動する。
青い光が、薄暗い石壁を撫でていく。
そこには亀裂も、焦げ跡も、魔力の痕もない。
まるでこの場所が、初めから“何も仕掛けられていなかった”かのように――。
遠くで誰かが息を吐く音がした。
その瞬間、霧が回廊の入口から流れ込み、青光が淡く揺れた。
塔の奥へと続く闇は、息をひそめるように、ただ静かにそこにあった。
――城外、北側の貯水路。
夜明けの霧がまだ地を這っている。
泥の上に靴跡と、深く刻まれた車輪の跡が交錯していた。
湿った空気の中を、別働隊が無言で進む。
足元が泥に沈むたび、ぐじゅ、と鈍い音が響く。
灯火の明かりが、曇った鉄兜の縁でぼんやりと反射する。
「……荷車の跡、ここで途切れています。」
先頭の兵が跪き、手袋越しに泥をなぞった。
そこには確かに“出入り”の痕がある――しかし、搬出物の影はない。
「爆薬を……外に出されたんじゃ?」
若い兵の声が、霧に吸い込まれて消えた。
隊長は一瞬だけ口を開きかけ、首を振った。
「……いや、外にも反応はない。まるで、“最初からなかった”みたいだ。」
沈黙。
測定器の青光が、湿った石壁に淡く跳ね返る。
風が貯水路を抜けるたび、水面がかすかに波立った。
ナレーション:
「痕跡がないという事実は、無実を意味しなかった。
それは、巧妙に“隠された存在”の証明でもある。」
霧の奥で、誰かが小さく咳をした。
その音すら、まるで遠い水底から響くように鈍く響いた。
南塔・地下制御室跡。
崩れかけた石壁の隙間から、夜明けの光が細く差し込んでいた。
粉塵が空気中に漂い、淡い青光を放つ測定器の明滅に合わせてゆらめく。
重い足音が響く。
カミラが階段を降りてきた。
白衣の袖口は煤で黒く汚れ、頬には一晩中働き詰めの疲労が刻まれている。
それでも、背筋は真っすぐだった。
「カミラ技官、お待ちしていました!」
兵の報告に、彼女は短く頷くだけ。
そのまま現場中央――制御盤の残骸に歩み寄り、黙って腰を下ろす。
次々と報告が飛ぶ。
「魔力残渣、ゼロです!」
「床下、壁面、配線部――どこにも反応がありません!」
「残留波形もなし!」
カミラは、何も言わずに聞いていた。
瞳は、機器の青光を映したまま、微動だにしない。
長い沈黙。
やがて、彼女は端末を起動した。
画面上の波形グラフは、まるで心電図のように水平のまま――ひとつも揺れない。
小さく、息を吐く。
「……反応がないのは、“存在しない”からではない。」
その声は、地下の冷気に溶けながらも、確かに響いた。
「外部信号で起動する“制御式魔導炸薬”なら、沈黙して当然です。」
一瞬、空気が張り詰める。
技術官の一人が、喉を鳴らして問う。
「せ、制御式……って、あの旧軍研究の……?」
カミラはうなずき、端末を閉じた。
「ええ。魔力波形を“鍵”として起動する爆薬。
信号を受け取らない限り、魔力反応を完全に遮断する。」
彼女の言葉が落ちるたびに、周囲の沈黙が深くなっていく。
静けさの中で、金属の擦れる音がやけに大きく響いた。
「“存在しない”という現象が、逆に“仕掛けられている”証になる。
沈黙そのものが、起動を待つ呼吸のように思えた。」
通信機の砂嵐が一瞬だけ鳴り、続いて、隊長の低い声が全域に響いた。
「――全隊、聞け。探知を継続。対象は“沈黙型爆薬”の可能性あり。
再確認を怠るな。繰り返す、沈黙は安全を意味しない。」
その言葉が無線越しに何度も反響する。
金属質の残響が、石壁の奥までしみこむように伝わっていった。
現場の隊員たちは、互いに視線を交わした。
誰も口を開かない。
ヘルメットの下で、喉が鳴る音だけがかすかに聞こえる。
測定器の青光が、湿った空気の中でゆらめく。
誰かの息が白く滲み、静かに消える。
そして、次の瞬間。
無線が途絶えたように、すべての音が止まる。
――静寂。
カメラがゆっくりと後退する。
残されたのは、無人の回廊。
壁に立てかけられた機材が、微かに光を反射している。
だが、奥の闇の向こう――誰の気配もないはずの空間で、
ほんの一瞬、金属が軋むような音がした。
「音のない空間。
だが、沈黙こそが“存在”を告げていた。
息を潜める爆薬のように、見えぬ何かが、そこにいた。」
測定器の画面が、薄暗い地下回廊の中央にぽつりと光を放っていた。
液晶の表示は、何度見ても同じ――数値ゼロ。
動かない針。変化しない波形。
技術官の一人が小さく息を吐き、端末を閉じようとした、その瞬間。
画面の端で――ほんの一瞬、赤いノイズが走った。
かすかに点いた赤。
誰も気づかぬまま、それはすぐに消える。
まるで、闇の中で“何か”が微笑んだように。
「見えぬ爆薬ほど、恐ろしいものはない。
存在しないことが、すでに脅威だった。」
静止した測定器の光だけが、湿気を帯びた空気に滲んでいく。
ゼロを示すその画面は――沈黙という名の時限装置のように、
何も告げぬまま、ただそこにあった。




