「消える荷車」
北門詰所の灯は、夜更けの湿気に滲んでいた。
帳簿のページをめくる指先が止まる。
「……北門の通過記録、一台、登録外だな。」
門番の低い声が、静まり返った詰所に落ちる。
傍らにいた若い兵が即座に立ち上がった。
「確認します。」
外気が入り込むと同時に、霧が白い舌のように室内へ這い込んだ。
兵は外套の襟を立て、短槍を片手に扉を押し開ける。
夜は深く、霧は濃い。
視界は十メートルと保たない。
灯籠の明かりも、わずかに足元の石畳を照らすだけだった。
――ギィ……ギィ……。
遠く、軋む音。
湿った空気を裂いて、かすかに車輪の回転音が届く。
兵は耳を澄ませ、音の方角に目を凝らす。
霧の奥、ぼんやりと荷車の影が浮かび上がった。
人影は見えない。馬の気配もない。
それでも、確かに“何か”がゆっくりと動いている。
「止まれ!」
兵は声を張り上げた。
「通行許可証を――!」
応答はなかった。
霧が、音をも呑み込むように静まり返る。
軋み音が一度だけ途切れ、再び、今度は逆方向へと遠ざかっていった。
兵の背筋に、冷たい汗が伝う。
兵は槍を構えたまま、足元を確かめるように進んだ。
靴底が霧に濡れた石を踏み、鈍い音を立てる。
――そこには、もう誰もいなかった。
ただ、通路の中央に、黒く濡れたような二本の線。
車輪の跡。
だが、その終点は途中でふっと消えている。
兵はしゃがみ込み、指先で石畳をなぞった。
かすかに焦げた匂い。
指先に淡い痺れが残る。
魔力の残渣――、それも“動力系”のものだ。
誰かが、魔導駆動の荷車を使っていた。
だが、そんなものをこの時間に、許可なく動かせる者など――
灯籠がひとつ、風もないのにカチリと鳴った。
その内側で、火が一瞬だけ赤く反転する。
まるで、外から差し込む“逆光”のように。
兵は思わず後ずさる。
霧の奥には、もはや何も見えない。
ただ、闇がそこに“通り抜けた”という確信だけが残る。
――その痕跡は、誰かが“何か”を運び出した証。
だが、搬出されたのが物か、
それとも意思か。
誰も、知ることはなかった。
霧の中を、視界がゆっくりと上昇していく。
まるで見えざる眼が、地を離れ、王城の外郭を俯瞰するように。
白い靄の海に沈む石壁。
その外縁から――一本の細い筋が延びていた。
車輪の跡だ。
黒い線が、城門から夜の街道へ、真っすぐに伸びている。
霧をかき分けるようにして、荷車が進んでいく。
人影は見えない。
ただ、無人のように静かに、確かな意志をもって前へ。
やがて、覆い布の下で光が脈打った。
淡く、しかし確かに赤い――鼓動のような光。
それは、アランの模型で示された“爆心”の色と同じ。
夜霧の奥で、その一点だけがゆっくりと呼吸する。
誰も見ていない。
けれど、その赤が確かに“動いている”ことだけは、
この街のどこかが、薄く震えて感じ取っていた。
塔の通信室。
魔導管が微かに唸り、結晶盤にざらつくノイズが走った。
通信士が慌てて耳を押さえる。
途切れ途切れの信号の奥で、歪んだ声が一言だけ届いた。
「……搬出完了。」
その瞬間、音がすっと消える。
魔晶盤の光も、まるで呼吸を止めるように沈黙した。
外では、霧がすべてを呑み込んでいく。
荷車の影はもうどこにもなく、軋む音も、足跡も残っていない。
ただ、湿った石畳に、わずかに焼け焦げた匂いだけが漂っていた。
――そして、静寂。
上空から見下ろすように、霧の海がゆっくりと揺らぐ。
その向こう、夜の果てで赤い光が一度だけ瞬いた。
「それは警告ではなく――始動の合図だった。」
王城の中枢。
誰もいない地下の封鎖区画で、
ほんの一瞬、石壁が“息をした”ように振動した。
アランの模型で描かれた予測線が、
いま現実の城で、静かに点灯し始めていた。




