「弟の視線」
夜更けの工房。
机上の魔導灯が、ひとつだけ淡い光を落としていた。周囲の闇は深く、作業机の上に広げられた模型だけが、まるで呼吸をしているようにわずかに脈動している。覆い布の隙間から漏れる光が、石壁を薄紅に照らしていた。
アランは椅子に腰を下ろしたまま、細い金属ピンをピンセットでつまみ上げ、模型の細部へと差し込んでいる。
手元の動きは寸分の乱れもない。だが、その背筋には確かに、静かな緊張が走っていた。
――扉が、軋んだ。
小さな音だった。だが、工房の静寂にそれは異様に響く。
アランの手が一瞬止まり、次の瞬間にはまた動き出す。振り向かない。
彼の耳は、その音の主をすでに理解していた。
足音。
一定の間隔で、迷いのない歩幅。
まるで、この部屋に入ることが“あらかじめ決まっていた行動”であるかのような、冷静な足取り。
やがてその足音が、机のすぐ背後で止まった。
魔導灯の光が、薄く伸びた影を二つ作る。
ひとつは作業に没頭する兄の影、もうひとつは静かにそれを見下ろす弟の影。
アランはようやく、工具を机に置いた。
それでもまだ、視線を上げない。
沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、模型の中に埋め込まれた魔導線が、わずかに赤く脈打った。
それはまるで、兄弟の間に生まれた見えない緊張を、光が察しているかのようだった。
ルークは机の反対側へと歩み寄り、覆い布の端を指先でめくった。
光がこぼれる。魔導灯の白光が模型を照らし、王城の縮図が姿を現す。
塔、回廊、地下層――すべてが緻密に再現され、赤い導光線が静かに脈を打っている。
その赤が、ルークの瞳の奥で揺らめいた。まるで、彼の中に潜む何かを照らすように。
しばらく模型を見つめていたルークが、ふっと口を開いた。
声は柔らかいが、言葉の端に冷たい棘がある。
「兄上、これでは半分も逃げられませんよ。」
アランは視線を上げなかった。
工具を動かしながら、短く答える。
「……わかっている。時間が足りん。」
淡々とした返答。だが、その声音には焦りも迷いもない。
むしろ、結果をすでに受け入れている者の静けさがあった。
ルークの目が、模型の一角――避難経路の終端に止まる。
光の線は、ある地点で途切れていた。
「“足りない”のは時間だけじゃないようですね。」
アランの指が、工具を握る力をわずかに強める。
だが、返答はない。
模型を挟んで向かい合う二人の兄弟。
その間を、淡い魔導の光が流れている。
まるで、光そのものが互いの胸の内を探ろうとしているかのように――。
赤い光が、模型の表面を静かに流れていた。
アランはその光の動きを目で追いながら、ルークの言葉の“温度”を測っていた。
――半分も逃げられませんよ。
その何気ない指摘に、単なる嘲りの響きはない。
むしろ、“情報を持つ者の確認”――そう感じ取れる確かな重みがあった。
(……知っている。だが、どこまでだ?)
アランは工具を置き、模型の一点に指先を当てる。
冷静な表情の裏で、思考は静かに巡る。
言葉を返さないこともまた、計算の一部だった。
一方のルークは、そんな兄の沈黙を観察していた。
唇に微笑を浮かべながらも、その瞳は冷たい計算で満ちている。
彼にとってこの訪問は、感情ではなく“検証”。
兄がどこまで“設計”を理解しているか――それを見極めるための、短い実験だった。
光が二人の間を隔てる。
同じ模型を見ていながら、見ているものはまったく異なる。
「同じ模型を見ていても、彼らが見ているものは違った。」
アランは“守るための構造”を。
ルークは“崩すための秩序”を。
そのすれ違いが、音もなく、模型の上に影を落としていた。
ルークの指先が、模型の上を静かに滑った。
淡い光が、その軌跡に沿って脈打つ。まるで命脈をなぞるように。
「避難経路を整えるのは良い。でも――」
声は柔らかく、しかし刃のような冷たさを孕んでいた。
「爆破の発信源が“内部”なら、逃げ道そのものが罠かもしれませんね。」
アランの手が、止まった。
金属工具の微かな音が机の上で響き、静寂の中に吸い込まれる。
光が一瞬、強く揺らぐ。模型の魔導線が赤く瞬き、まるで兄の胸の鼓動を映しているかのようだった。
沈黙の中、アランはゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、問いを選びながら相手を射抜く。
「……お前は、もう知っているのか。」
ルークは答えなかった。
ただ、模型の中央――王冠を象る尖塔の部分に指を置き、軽く押さえる。
「真実は、いつも中心から壊れるものですよ。」
囁きは穏やかだった。
だが、その言葉が指す“中心”の意味を、アランは痛いほど理解していた。
模型の中央塔が、静かに赤く染まっていく。
光は濃く、血のように深く。
まるで“そこから何かが崩れ始める”未来を、先取りするかのように――。
ルークはそれ以上、何も言わなかった。
静かに身を翻し、扉へと歩き出す。
足音は一定で、迷いがない。まるで、今この瞬間の会話すら予定に組み込まれていたかのようだった。
アランはその背中を見送る。
何かを言おうと、唇がわずかに動いた。
だが――声は出なかった。
扉が閉まる音が、静寂の中に沈み込む。
その余韻が消えるより先に、机の上で光が再び脈を打った。
模型の中央――尖塔の奥に埋め込まれた光石が、鼓動のように明滅する。
赤い光が部屋をかすかに染め、壁の影を揺らす。
兄弟の間に残ったのは、言葉ではなく、光だけだった。
それはまるで――意思を持つ心臓の鼓動のように。
アランはその光を見つめたまま、しばし動かなかった。
やがて、深く息を吸い込み、静かに吐き出す。
「……始めるしかない、か。」
呟きは自分に向けた決意のようであり、懺悔のようでもあった。
魔導灯の光がゆらりと揺れ、模型の上で赤と白が交わる。
夜はさらに深まり――王都のどこかで、同じ鼓動が、静かに鳴り始めていた。




