模型の王城
「――今夜は、一人にしてくれ。」
短く告げたアランの声は、静寂に沈んだ部屋の空気を切り裂くようだった。
侍従は一瞬だけ逡巡したが、主の瞳に宿る鋭い光を見て、何も言わずに頭を下げた。
扉が閉まる音が、低く、乾いた金属音のように響く。
やがて、その足音さえも廊下の奥へと消えた。
――静寂。
アランは椅子を引き、机上の作業台に歩み寄った。
薄闇の中、彼の指が魔導灯のスイッチに触れる。柔らかな青白い光がぱっと灯り、部屋の一角だけを照らした。
光の輪の中――そこにあったのは、王城の精密模型だった。
塔の一本一本、回廊の曲がり角、地下に走る細い通路。
瓦の影がわずかに重なり、まるで本物の城が夜の闇に沈むような陰影を落としている。
模型の内部には、細く光る導線が縦横に張り巡らされていた。
淡く脈打つその光が、まるで“城の血管”のように見える。
アランは椅子に腰を下ろし、顎に手を添えた。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で、呟く。
「……始めよう。」
魔導灯がかすかに唸り、模型の中の影が揺れた。
――この夜、彼の王城はまだ“沈黙”していた。
だが、その沈黙の奥底で、何かが確かに息づき始めていた。
作業灯の光が一点を照らす。
机上に鎮座する王城模型は、もはや玩具などではなかった。
それは“構造体”と呼ぶべき、縮小されたひとつの生命だった。
木製の城体は層ごとに分割され、塔や通路の等高線まで正確に再現されている。
壁の裏には、髪の毛ほどの細さの金属線が網の目のように走り、その線の節々に微小な魔晶が埋め込まれていた。
それらが、王城に張り巡らされた魔導網の模倣――“設計”の縮図だ。
アランはピンセットを取り上げ、慎重にひとつの金属ピンを抜く。
乾いた音。
代わりに、僅かに湾曲した別のピンを差し込むと、模型の中を流れる光の経路が変わった。
次の瞬間、塔の基部に埋め込まれた光石が赤く瞬き、
やがて通路を伝って他の光石へと連鎖する。
赤光は線となって模型の内部を走り、各階層をなぞるように移動する。
その横で、小型の測定器が自動的に数字を弾き出した。
《15s》《27s》《41s》――。
光の到達時間。魔力伝播の実測換算値だ。
もし実際の王城でこのルートを爆破すれば、崩壊がどのように広がるか、秒単位で再現できる。
アランはその数字を目で追い、唇を僅かに動かした。
「……南塔は十五秒で崩落。避難路は封鎖される。」
模型の一角に仕込まれた可動式の回廊ピースが、音もなく沈み込み、閉塞の動きを再現する。
まるで、王城そのものが――彼の指先に従って、崩れていくようだった。
アランは息ひとつ乱さず、模型の前に戻った。
作業灯が彼の肩越しに落ち、木の城体の微細な凹凸を白く浮かび上がらせる。
ピンセットで小さな起点ピンを掴み、模型の東翼――城壁と塔の接合部に軽く押し込む。
指先に伝わる僅かな抵抗。彼は目を細め、机上の小型タイマーを押した。
瞬間、模型内の埋め込み光石群が赤く連鎖を始める。
粉末で仕立てた石材の小壁が、静かに崩れ落ちる演出。砂煙がミニチュアの通路を埋め、光が薄れていく。
アランはメモ用紙に数字を書き込み、声に出して確かめた。
「東翼起点――南塔崩落、15秒。北回廊閉塞、27秒で完全遮断。避難路Bは41秒で機能喪失。」
彼の声は主張でも狼狽でもなく、淡々とした算術であった。
次のピンを差し替え、別の起点を仮定するたびに、模型は異なる破線を描いた。光の伝播速度、構造の脆弱点、逃げ場の有無――すべてが秒数として机上に還元される。
「ここを補強すれば、西側の避難率は上がる。しかし補強に要する時間は二十四秒。――間に合わない。」
彼は指で三つの区画をなぞり、選択肢を整理する。被害最小化のために、救う場所と捨てる場所を決めねばならない。
指先が止まると、灯りの下で紙片がカサリと鳴った。
アランは一枚の表に赤で線を引く。そこには簡潔な文字列が並ぶ。
《救援優先:王城北翼、民避難路C》
《切捨てライン:東翼居住区(回復困難)》
――選択は冷徹だった。だが彼は知っていた。王である者は、誰かを救うために誰かを諦めねばならない瞬間と向き合う、孤独な計算者であると。
再び模型を見下ろし、アランは小さく息を吐いた。燈火が揺れて、模型の影が壁に長く伸びる。
「時間は有限だ。最も多くの命を守るために、最悪を受け入れる。」と彼は囁いた。
その言葉は祈りでも懺悔でもなく、冷たい決定の宣言だった。
蝋燭の炎が一度だけ大きく揺れ、机上の赤数字がかすかに瞬いた。
扉がわずかに軋み、侍従が恐る恐る顔を覗かせた。
「殿下……お休みの時間を――」と言いかけて、声が途切れる。
作業台の上には、光の脈動を放つ王城模型。
赤と白の光が交錯し、崩壊の再現がまるで現実の戦火のように、壁面を伝って広がっていた。
粉末の微塵が空気に舞い、灯の揺れがそれを煙のように見せる。
アランは、紙に走る数列を見つめながら静かに呟く。
「……この位置で起爆すれば、南塔は十五秒で崩落。避難通路Bは三十秒で閉鎖。」
侍従はその声を聞いた瞬間、思わず一歩後ずさる。
白い指が胸元を掴む。
「殿下……まるで本物の爆破計画のように……」
アランは手を止め、顔を上げた。
灯の反射が瞳に宿り、淡く笑みを浮かべる。
しかしそこには慰めも情もなかった。
「違う。」
短く、切り捨てるように言う。
「敵が想定している範囲を、私が先に読み切るのだ。」
静寂が戻る。
アランは再び模型に視線を落とし、赤い光の走るルートを追い始めた。
侍従の目には、それがまるで“人命の消える順序”のように見える。
彼は唇を噛み、模型の一角――「救出不可能」と印された小さな札に目を落とした。
その札の文字が、薄灯の中で血のように赤く滲んで見える。
「……殿下、そこに住む者たちは……」
声が震え、最後の言葉は喉の奥で途切れた。
アランは答えない。
ただ、一本の導線を指でなぞりながら、囁くように言った。
「犠牲を避けるために、犠牲を知る必要がある。――それが設計というものだ。」
侍従は何も言えず、立ち尽くした。
静寂の中、模型の赤光が壁に反射し、彼の顔を青白く照らす。
その光は、理性の名を借りた冷酷の炎のように――ゆらりと燃えていた。
アランは一枚の図面を広げた。
それは模型と同じ縮尺で描かれた、王城の魔導線分布図。
薄い羊皮紙の上に刻まれた線が、まるで血管のように複雑に走っている。
ランプの光が斜めに差し込み、導線の細かな刻印が浮かび上がる。
彼はピンセットを置き、指で節点をなぞりながら、独り言のように呟いた。
「……ここ、南塔の支柱。古い補強が入っていない。
この角度で爆発波が進めば、外壁は十五秒で崩落する。
地下の旧貯水路――魔導水脈が交差している。崩落は水圧に乗って拡散する。」
彼は淡々と、まるで方程式を解くかのように言葉を並べる。
紙上の数値と模型の光が同期し、赤い点がひとつずつ点滅していく。
その点滅は、まるで呼吸をする心臓の鼓動のようだった。
アランはペンを取り、余白に短く書き込む。
「爆心半径:12m 耐久閾値:3.4/6.0 崩落予測時間:15s」
静かな筆音が、夜の工房に淡々と響く。
それは恐怖や焦燥の音ではなく、計算の音だった。
彼の瞳は、もはや“建物”を見てはいない。
構造――仕組みそのものを見ていた。
石壁の厚み、結晶の共振域、負荷伝播の経路。
それらすべてを一瞬で組み立て、崩壊の形を描き出す。
侍従はその様子を息を呑んで見つめていた。
殿下の手の動きは、まるで“破壊”を芸術のように扱っている。
冷たい理性が、戦略の形に変わる瞬間だった。
アランは筆を止め、模型の中央部を軽く叩く。
そこが王城の“心臓”――王家の謁見の間。
「……ここが落ちれば、王国は沈む。
だが、崩壊の形を知れば、止める方法も描ける。」
その声は静かで、感情の欠片もなかった。
けれど、模型の中で赤光が一瞬だけ強く瞬き、まるでその言葉に応えるように脈打った。
彼はその光を見つめながら、小さく笑う。
「……やはり、設計は正しい。構造は嘘をつかない。」
その言葉が、夜の静寂に溶けていった。
アランは、模型の上をゆっくりと指先でなぞった。
光が流れ、崩落の波形が再び走る。
光石が赤く瞬くたび――その下に刻まれた人々の命が、数値として消えていくように思えた。
「……この区画を切り捨てれば、被害は最小に抑えられる。」
淡々とした声が工房に響く。
手元の紙に、彼は迷いなく線を引く。
その線の向こうに“救われない者たち”がいることを知りながら。
一瞬、ペン先が止まった。
アランの目の奥に、わずかな揺らぎが走る。
彼は深く息を吸い、静かに心の中で呟いた。
「――王であるということは、誰を見捨てるかを選ぶことだ。
理性は残酷だが、公平だ。」
わずかに震えた指を押さえ、再び計算を続ける。
光が赤から青に変わり、崩壊の線は“制御可能”の範囲へと収束していった。
背後で侍従が小さく息を呑む。
彼には、殿下のその姿が冷徹にしか見えなかった。
机上で描かれるのは救済の図ではなく、選別の図。
そして、その手を動かす主は、もはや“人”ではなく――“王”そのものだった。
アランは、わずかに疲れた目を閉じる。
指先に染みついた光の熱が、痛みのように残っていた。
その痛みこそ、彼がまだ人である証だった。
アランは、光の消えた模型の上に新たな線を描き足した。
避難ルートを細く削り、不要な枝道を切り捨て、最短で“生き残るための動線”だけを残していく。
彼の指が動くたび、模型上に新たな印が置かれる。小さな紙片――魔導印を模した即席の標識だ。
それは見た目にはただの紙だが、魔力を帯びた微弱な符号が刻まれていた。
その印が置かれた区画は、まもなく現実の王城で封鎖されることを意味する。
アランは模型の地図を半ば覆うように手を広げ、わずかに呟く。
「……ここは切り離す。通路を塞げ。
南塔の下層は封鎖――外には知らせるな。」
背後の扉がわずかに軋む。
ひとりの近衛が、暗黙の指令を受け取るために静かに姿を見せた。
アランは視線を上げず、模型の一点を指差す。
指先が触れた場所に、赤い光が瞬く。
「この印の通りに動け。
ただし――報告はするな。誰にも。」
近衛は言葉を発せず、短く敬礼して姿を消す。
扉が閉まる音だけが残り、再び沈黙が工房を満たした。
アランは深く息を吐き、模型を見つめ直す。
そこに広がるのは、避難計画ではなく――籠城戦略。
彼はペンを取ると、最後の一点に印をつけた。
その位置は、王城の中心、“心臓部”――
誰も立ち入ることを許されない、設計の中枢だった。
「……準備を始めよう。」
その言葉は、命令でも祈りでもなかった。
ただ、静かに迫る運命への――覚悟の始まりだった。
アランの手元で、王城の模型が静かに光を帯びていた。
その光は新しいものではない。
――この模型は、彼の手で幾度となく再設計されてきたものだった。
まだ戦が遠かった頃、彼は夜ごと、別の模型に向かっていた。
「王城地下の旧構造」「グレイス峠の防衛線」――。
あのときはただの演習であり、趣味の延長のように見えていた。
だが、今となってはそれらすべてが予行であったとしか思えない。
アランは模型の北塔を指でなぞる。
指先が触れるたびに、内部の導線がわずかに光を返した。
その光のひとつ――地下の貯水路を示す箇所で、微かに色が違っていた。
青白いはずの光が、赤味を帯びている。
「……ここだな。構造が古い。封鎖指定にしても、崩落は避けられない。」
彼の声は独白に過ぎなかったが、言葉の響きには確信があった。
模型上の“その一点”は、後に現実の城で最初に崩れ落ちる場所となる。
そして、彼の脳裏にはルークの言葉が蘇る。
『もし城が、丸ごと消えたら――どうする?』
その挑発めいた一言を、アランは今、机上の演算ではなく、実務の計算として受け取っていた。
模型上の線は、すでに理論ではない。
それは“現実を写す写し鏡”だった。
灯りの下で、模型の輪郭がわずかに揺らめく。
まるでその縮小された王城そのものが、未来の崩壊を予知して息づいているかのように。
アランは息を止め、静かにペンを置いた。
「……設計は、動いている。」
その言葉とともに、模型の中心――“心臓部”が微かに脈打つ。
それは偶然の光ではなかった。
王城の運命が、彼の手の中で静かに形を取り始めていた。
部屋の空気は、深夜の静寂と緊張の境界にあった。
灯火の光が弱まり、模型の中に埋め込まれた魔導線だけが、淡く明滅を繰り返している。
アランは最後の一点――模型の中心部、王城の心臓にあたる場所へと手を伸ばした。
指先が小さく触れる。
瞬間、内部の導線が紅に脈打ち、まるで生体の鼓動のように光がひとつ、またひとつと伝わっていく。
アラン:「……避難経路はこれで仮定済み。」
彼の声は平坦で、計算の報告のように整然としていた。
だが、その言葉の後に、ひときわ長い沈黙が落ちた。
やがて、アランは模型の中心に指を残したまま、低く呟く。
「――だが、本当に必要なのは、設計者を止めることだ。」
その声は、理性の奥に潜む決意の影を帯びていた。
まるで、自らをも対象に含めるような響き。
背後で立ち尽くしていた侍従は、返す言葉を見つけられなかった。
ただ、軽く頭を垂れ、音を立てないように部屋を去る。
扉が閉まる音が、城の外の風よりも静かに響く。
残されたアランはしばらく模型を見つめ続けていた。
やがて、小さく息をつき、机の端に置かれた布を手に取る。
それを丁寧に広げ、模型の一部――王城地下の未完成区画を覆い隠した。
布が落ちる瞬間、光の脈動がその下で途切れる。
情報を、あえて封じる。
それは“守秘”でもあり、“孤立”の始まりでもあった。
「……これ以上は、誰にも見せられない。」
呟きは自分に向けられた戒めのように低く響いた。
再び静寂。
作業灯が細く揺らぎ、模型の上に影を刻む。
そしてその影の中心――覆われた布の下では、消えたはずの魔導光が、ほんの一瞬だけ、かすかに点滅した。
まるで“設計”そのものが、彼の決断を見届けたかのように。
アランは覆い布の端を押さえたまま、しばし模型の上を見下ろしていた。
細密な塔の影、回廊の線、そして小さく刻まれた階層の符号――それらは、もはや単なる模型ではなかった。
王城の全構造と脆弱性を写し取った、“設計図であり、捜査の記録”そのもの。
彼は静かに立ち上がり、窓辺へ歩み寄る。
外はまだ深い夜。
王都の街灯が霧の中にぼやけ、遠くの石畳を荷車が軋ませて通り過ぎる。
荷馬の鈴が、風の音に紛れて微かに響く。
アランの目は、その闇の向こうを見ていた。
まるで、誰かが――あるいは何かが――すでに動き始めているのを知っているかのように。
背後の机では、模型の布がわずかに沈み、下から赤い光が一瞬だけ漏れた。
それは、模型に刻まれた一点――彼が今しがた「危険」と判断した区画。
光はすぐに消えた。
だが、その瞬きだけが、まるで“予兆”のように部屋の壁を染めた。
アランは窓越しに夜空を見上げる。
その瞳に映るのは、城の輪郭と、闇の底で蠢く設計の影。
「……始まるのは、ここからだ。」
小さく呟く声が、冷たい風とともに消えていった。
そして――次章では、模型に記された一点が、現実の王城で赤光を放つことになる。




