心理戦 ― 「沈黙の食卓」
晩餐室には、わずかな灯りが揺れていた。
封鎖命令が出された夜、王城全体が息を潜める中で、
この部屋だけが――奇妙なほど静かに、そして美しく光を残している。
長大なテーブル。その両端に兄弟が座っていた。
王太子アランと、弟王子ルーク。
二人の間には料理が並び、銀の皿に映る燭光が鈍く揺れる。
だが、誰もその料理に手を伸ばさない。
香りは冷え、湯気はもう立ち上っていない。
壁際には侍従たちが並び、頭を垂れて沈黙している。
その沈黙は、命令ではなく――畏れの産物だった。
誰もが、この場に漂う“何か”の重さを感じていた。
ナイフが皿に触れる、かすかな音。
それが、この部屋の唯一の呼吸だった。
アランは正面を見据えたまま、何も言わない。
ルークもまた、微笑を浮かべたまま動かない。
二人の間には、言葉では埋められない距離があった。
その距離を満たしているのは、温もりではなく――沈黙。
沈黙こそが、この夜の食卓を支配していた。
最初に沈黙を破ったのは、弟だった。
ルークはゆっくりとナイフを置き、
手元のワインを指先で回しながら、微笑を浮かべた。
その微笑には、温かさの欠片もない。
まるで、観測者が実験体を観察する時のような静かな興味だけが宿っていた。
「兄上、人は疑いすぎると孤立しますよ。」
低く、よく通る声だった。
しかしその柔らかさは、刃の研ぎ澄まされた鋭さに似ていた。
ルークは続ける。
「……それでも、孤独の方が安全ですか?」
その瞬間、部屋の空気が微かに動いた。
暖炉の炎が一度だけ揺れ、
壁際に控える侍従の一人が、思わずナプキンを落としそうになる。
だが、その布は宙で止まった。――恐怖が、動きを縫いとめたのだ。
ルークの瞳はまっすぐアランを射抜いていた。
挑発の色はない。ただ、観察。
自らの問いに対し、兄がどう答えるのか。
その反応を一つ残らず記録しようとするような、静かな探求者の目。
だが、テーブルの向こう側から返るものは、沈黙だけだった。
それは拒絶の沈黙――
あるいは、決して触れさせない者の沈黙だった。
アランは、ただ静かにグラスを取った。
指先が硝子を掴む音が、食堂の広い空間にわずかに響く。
赤い液体が揺れ、月光を受けて深い影を落とした。
彼はそれを、一息に飲み干す。
喉の動きすら音を立てない。
言葉はない。
否、言葉など不要だった。
その沈黙こそが、アランという男の答えだった。
ルークはわずかに息を吸い、何かを言おうとした。
だが、その瞬間――
彼の前に、見えない壁が立ちはだかるような感覚に襲われた。
アランの沈黙が、音ではなく“意志”として空気を支配していたのだ。
やがて、アランは静かに口を開く。
声には怒りも熱もなく、ただ冷たい確信だけが宿っていた。
「……疑いとは、信じる価値を確かめる行為だ。」
その声は、人間のものというより――統治者の声だった。
揺るがぬ秩序、冷徹な判断。
その一言が放たれた瞬間、空間そのものが“裁定”へと変わる。
ルークは、しばし兄の顔を見つめた。
目を細め、微かに口角を上げる。
その笑みには、諦めとも、計算ともつかぬ影が差していた。
「それでは、信じられた者は幸運ですね。
――今夜のこの城に、幸運はどれほど残っているのでしょう?」
その言葉に、アランは何も答えなかった。
ただ、空になったグラスの底を見つめる。
そこにはもはや、赤ではなく――
沈黙という名の影だけが沈んでいた。
ルークは笑みを浮かべたまま、ふと目を伏せた。
わずかに睫毛が震え、その奥に――かつての“兄弟”としての温度が一瞬だけ灯る。
それはほんの刹那のことだった。
燃え残りのような情が、瞳の奥で光を宿す。
だが次の瞬間、それは掻き消された。
まるで冷たい風が火を吹き消すように。
ルークの表情からは、再び何の感情も読み取れなくなる。
アランはその変化を、見逃さなかった。
言葉ではなく、視線だけで――互いの覚悟を読み取る。
ふたりの瞳が交わる。
音も、息も、存在も、すべてが一瞬で凍りついた。
壁際に控えていた侍従たちは、一斉に息を呑む。
誰も動かない。誰も目を逸らせない。
長大な食卓が、まるで戦場の境界線のように二人を隔てていた。
その中央には、かつて共に見上げた“未来”の残響が、形のないまま置き去りにされている。
――だが、もう誰の手も届かない。
ルークはゆっくりと視線を外し、薄く笑う。
アランは沈黙のまま、その笑みを受け止める。
その夜、兄弟の間に流れたのは、血ではなく――信頼の死だった。
ルークは椅子を静かに引いた。
脚が床を擦る音が、広大な食堂に鋭く響く。
それが、この沈黙の夜における唯一の“音”だった。
彼は立ち上がり、淡く微笑む。
それは礼節としての笑みであり、兄に向けた最後の仮面でもあった。
「ごちそうさまでした、兄上。」
一礼の動作は完璧で、非の打ちどころがない。
だが背を向けた瞬間――その笑みは、音もなく消える。
顔の輪郭が闇に溶けていき、残されたのは“王族”ではなく、“策士”の背中だった。
アランは動かない。
冷めたワインの残り香だけが、まだ微かに漂っている。
彼は空になったグラスを静かに卓上へ置き、
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
「沈黙こそ、真実を暴く最初の刃だ。」
その言葉が宙を漂う間に、
壁際の燭台がひとつ、またひとつと消えていく。
やがて食堂は、完全な闇に沈んだ。
残されたのは、音も、言葉も、温度すらもない夜。
――ただ、“支配”という名の沈黙だけが、王城を満たしていた。




