夜の影 ― 「沈黙の通信」
夜が、王都を深く包み込んでいた。
城の高塔にかかる月光は薄く、風の音さえ遠い。
王城の片隅――第二王子ルークの私室だけが、蝋燭一本の明かりに照らされていた。
机の上には、封を切らぬ文書と、ひとつの水晶通信器。
それは、青白く冷たい輝きを宿しながら、まるで呼吸するように淡く脈動している。
ルークは椅子から立ち上がる。
ゆっくりと、まるで儀式の一手を踏むかのように、右手を水晶の上にかざした。
指先に絡みつく淡い青光。
空気が微かに震え、静寂が“共鳴”の音を孕む。
光の中から、ノイズを帯びた声が滲み出した。
「……次の段階へ……“王冠の起動”を……」
それは言葉というより、“命令の残響”だった。
意思を持たぬはずの波が、確かに“意図”を伝えていた。
ルークの瞳がわずかに揺れる。
だがその表情は変わらない。
驚きも、恐れも、迷いもない。
まるで――この瞬間を、最初から知っていたかのように。
彼は静かに答えた。
「ええ、すべて予定通りに。」
青光が一瞬、脈打つように明滅し――次の瞬間、音が途絶えた。
通信水晶は沈黙し、部屋の空気がゆっくりと元の静寂を取り戻す。
ただ、どこかが違っていた。
世界そのものが“ひとつ先の段階”へ進んだような、
そんな違和感だけが、確かに残っていた。
――夜が、何かを起動した。
ルークは通信を終えると、静かに手を下ろした。
青光が消えたあとも、指先には微かな温もりが残っている。
その感触を確かめるように掌を閉じると、彼は机の引き出しに手を伸ばした。
木製の引き出しが、乾いた音を立てて開く。
中には、丁寧に折り畳まれた一枚の紙。
古びたインクの匂いが、空気に滲む。
――兄、アランの筆跡だった。
設計図の写し。
直線と円弧、細密な注釈。
まるで王国そのものを“思想として設計”したかのような、完璧な図面。
ルークは紙を机に広げ、淡く光を放つ水晶をその上に置いた。
光が線をなぞり、まるで図面が再び“呼吸”を始めるように脈打つ。
彼はその光景を見つめながら、静かに呟く。
「兄上の“理性”は、美しい。
けれど――設計は理性では止まらない。」
言葉と同時に、蝋燭の炎がわずかに揺れた。
風はない。だが、火はまるで“息をつく”ように震えていた。
ルークは顔を上げ、窓の外に視線を向ける。
夜の王城が、静かに塔の影を伸ばしている。
どこまでも冷たいその輪郭を、月光がなぞっていた。
――その光景は、彼にとって恐れではなく、確信だった。
地の文:
「風も音も、今夜だけは彼を拒まなかった。
まるでこの城そのものが、彼の思考を受け入れているかのように。」
ルークの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
それは少年の無邪気さではなく――
“設計の完成を見届ける者”の、静かな歓喜だった。
ルークは静かに椅子の背にもたれた。
その姿は、まるで長い計算の果てに答えを得た研究者のように、揺るぎがなかった。
窓辺の蝋燭が、細く息を吐く。
淡い炎が彼の横顔を撫で、光と影の境を静かに分けていく。
その影の中で、彼はゆるやかに――微笑んだ。
それは温もりを持たない微笑だった。
幼さも、恐れも、躊躇も存在しない。
ただ、“結果を知る者”だけが持つ静謐な確信だけが、そこにあった。
水晶の中で、最後の光が弾ける。
そして、部屋の空気が――呼吸を止めた。
地の文:
「その笑みは、少年のそれではなかった。
――設計者の微笑みに、限りなく近かった。」
静寂の中、視界がゆっくりと引いていく。
窓の外――王都の夜景が、深い闇の海のように広がっていた。
しかし、その光の配置が、徐々に異様な規則性を帯びていく。
街路、塔、運河。
それらが青白い魔導灯の線で結ばれ、まるで巨大な“回路”のように浮かび上がる。
ひとつ、またひとつと灯が点り、
やがて王都全体が、心臓の鼓動のようにゆっくりと脈動を始めた。
ルークはその光景を見つめたまま、微動だにしない。
まるでそれを――“自らの意志”として受け入れているかのように。
「王都が、静かに起動を始めていた。
沈黙の王は、まだ声を発していない。
だが、その沈黙こそが、最初の命令だった。」
蝋燭の火が、最後の瞬きを見せた。
細い炎は震え、ふっと消える。
暗闇がすべてを飲み込む中で、ただひとつ――青い水晶だけが、脈動を続けていた。
光は静かに揺れ、部屋の影に淡い呼吸を与える。
その脈動は、まるで王都全体の魔力の鼓動と共鳴しているかのようだった。
「沈黙の中で、設計は再び動き始めた。
それはまだ“人”の手にあると思われていた。
――王冠の意志の再起動だった。」




