翌朝 — 庭園
晩春の朝。
夜気の名残を含んだ空気が、まだほんのりと肌に冷たい。だが、陽光は柔らかく、城の中庭を金の薄膜のように包み込んでいた。
噴水の水音が、絶え間なく静けさを刻む。小鳥たちのさえずりが花壇の間を渡り、香り立つジャスミンとバラの匂いが風に溶けて流れていく。
遠くの回廊では、衛兵の靴音が規則的に響いた。石畳を叩く金属音は、王城という巨大な機構が今も淡々と動いていることを告げるようだった。
この静けさは、平和の証にも聞こえる。だが、アランには違って見えた。
――どこか、張りつめている。
まるで風すらも、何かの合図を待って息を潜めているようだ。
軍部会議の開始までは、まだ少し時間がある。
アランは会議室へ向かうため、いつものように庭園を横切った。
その朝の空気は、彼の心にまとわりつく重苦しさを一瞬だけ和らげたが、同時に――胸の奥でざらりとした不安の気配も残していった。
アランは、朝の光にわずかに目を細めながら、裏回廊を抜けて庭園へと足を踏み入れた。
軍部会議はもうすぐ始まる。だが、彼の頭の中ではすでに議題の整理が始まっていた。
机上の地図、南方の防衛線、予算の削減案――昨夜、模型の補強作業を終えたのは深夜過ぎだったせいか、思考の歯車がやや重い。
(……今日も、あの元帥の顔を見なければならないのか)
胸の奥で、静かにため息がこぼれる。
寝不足の身体を陽光が包み、緊張の残滓を少しずつ溶かしていく。
噴水のほとりを通りかかったそのとき――ふと、視線の先に人だかりが見えた。
朝の光の中に、淡い絹と宝石のきらめき。笑い声。
その中心にいたのは、まるで絵画の一場面のような光景だった。
――第二王子、ルーク。
噴水の縁に軽く腰を掛け、陽を受けて金糸のように輝く髪。
彼の周りには三、四人の貴族令嬢たちが寄り添い、花のように笑みを咲かせていた。
噴水の縁に腰を下ろしたルークは、朝の光を背に受けて微笑んでいた。
片手には金縁のティーカップ、もう片方の手は軽やかに宙を舞い、言葉の節々に滑らかな抑揚を添える。
彼の周囲には三、四人の貴族令嬢たち。
ひとりは議会派を象徴する青のドレス、ひとりは軍部寄りの赤、もうひとりは中立を示す白――その取り合わせだけで、まるで政治地図の縮図のようだった。
「あなたは……ラシュフォード侯爵家のご令嬢ですね?」
ルークは、まるで旧友に語りかけるような穏やかな声で言った。
「お父上が南部税改革の推進をしておられたとか。私も報告書で拝見しましたよ」
令嬢の頬がぱっと明るくなる。
「ええ、よくご存じでございますわ!」
ルークは軽く顎に指を当て、少しだけ目を細めた。
「ふむ……では、次の舞踏会では南部のワインでも用意しておきましょう。お好みは――辛口、でしたね?」
令嬢たちの笑い声が噴水の音に混じって広がる。
「さすがは第二王子様」「お優しい方……」と囁き合う声が途切れない。
彼の微笑みは柔らかく、瞳は人の心を映す鏡のように澄んでいた。
――だが、アランの目には、どこか冷たい光がその奥に見えた。
それは「天性の人たらし」ではなく、「目的のために最適な言葉を選び続ける者」の光。
完璧な社交の裏に、磨き抜かれた計算があった。
アランは足を止めなかった。
庭園の小道をゆっくりと歩きながら、ほんの一瞬だけ視線を噴水の方へ滑らせる。
そこには、朝の光の中で完璧に組み上げられた“社交の構図”があった。
ルークが笑い、令嬢たちがそれに応じる。
噴水の水飛沫が金色の粒になって宙を舞い、その全てが計算された舞台装置のように整っている。
(……なるほど)
アランは心の中で小さく呟いた。
こうした場の空気は、派閥の地ならしには欠かせない。
政略結婚、忠誠の確認、そして噂の操作。
ルークはそれらの手管を、まるで息をするように操っている。
(あいつは、“人”で国を繋ぐタイプだ)
対して、自分は――数字と理屈でしか世界を整理できない。
同じ王族として育ちながら、方向がまるで違う。
兄弟という言葉が、どこか現実味を失っていく感覚。
噴水の音が遠ざかる。
アランの歩みは止まらない。
だがその横顔には、眠れぬ夜の名残と、拭いきれぬ違和感が薄く影を落としていた。
噴水の縁を囲む令嬢たちは、ただの華やかな飾りではなかった。
彼女たちの家名を思い浮かべるたび、アランの脳裏には議会の座席表や軍の予算表が重なっていく。
ラシュフォード家――議会派の財務院支援。
ヴァルデン家――軍部寄り、北部駐屯地の補給を握る。
リスティア家――中立の名門、しかし今は動向不明。
(……よくもまあ、こうも綺麗に集めたものだ)
ルークはその中心で、まるで絵画の中の人物のように微笑んでいた。
軽く紅茶を傾け、柔らかく言葉を紡ぐ。
「――王国の未来は、皆さまのような若き才によって形づくられる。
父上の快癒を祈りながら、私はその礎を築きたいのです」
優しく、誠実に。
声には一片の淀みもない。
令嬢たちは息を呑み、憧れにも似た眼差しを彼に向けた。
アランは、遠くからその様子を眺める。
陽光を受けて金の髪が揺れ、風が花弁を舞わせる――まるで理想の王子の姿。
だがアランの目には、別のものが映っていた。
(……あれは“言葉”じゃない。“計算”だ)
すべての言葉が、誰に届くべきかを理解している者の喋り方。
完璧な距離、完璧な笑顔、そして完璧すぎる誠実さ。
それは美しく整いすぎていて、どこか“人間味”の欠片を感じさせなかった。
アランは視線を逸らし、吐息を落とす。
噴水の水音が背後で跳ね、彼の背中を冷たく撫でた。




