事件発生 ― 「静寂の晩餐」
リュミエール連邦――氷と光の都セレスティア。
そこは理性と技術が統べる、王国にとって最も重要な外交の相手国だった。
その夜、迎賓館には、
雪を思わせる白亜の壁と、深い蒼を湛えた天井のドームが静かに輝いていた。
天井から吊るされた光結晶のシャンデリアが、
氷の彫刻とガラスの杯を照らし、まるで星空が降り注ぐような幻想を作り出していた。
空気には香水と食材の芳香が溶け合い、
楽団が奏でる弦の調べが柔らかく流れる。
人々は微笑みを浮かべ、儀礼的な言葉を交わしていた。
――完璧な“平和の演出”。
誰もが、この夜だけはすべての不安を忘れたふりをしていた。
長卓の中央、王国の紋章旗がリュミエールの紋章と並ぶ。
第六王子アドリアンは静かに立ち上がり、グラスを掲げた。
彼はまだ若く、温和な笑みを絶やさぬ王子として知られている。
その穏やかさは、国の未来への希望の象徴だった。
> 「今日という日を、両国の理性が結ぶ証として――」
その声は澄んでいた。
リュミエールの宰相ヴェルナーが微笑み、同じく杯を掲げる。
> 「共に歩む未来へ――」
音楽が途切れ、会場の視線が二人へと注がれる。
グラスが交わり、透明な音が空気を裂いた。
その瞬間――光が、わずかに揺らいだ。
天井のシャンデリアが、ほんの一秒、影を落とす。
誰もが気づかないほどのわずかな違和感。
だが、その刹那、アドリアンの胸元の金のブローチが淡く発光した。
音はなかった。
閃光が一筋、心臓を貫いたように見えた。
王子は微笑を保ったまま、ゆっくりと椅子にもたれ――そして、崩れ落ちた。
グラスが床を転がり、赤い液体が広がる。
だが、その色はワインではなかった。
> 「殿下……? 殿下!」
叫びがあがる。
だが、返事はない。
胸元の衣の下、心臓の位置に黒く焦げた紋が残っていた。
それは、王国式の魔導刻印――
つまり、“内部の技術”によって刻まれた焼痕だった。
静まり返った会場。
人々の瞳が、ひとつの方向へ向かう。
――王国代表団。
> 地の文:「誰が殺したか、誰も見ていなかった。
> ――にもかかわらず、全員が“王国”を見た。」
宰相ヴェルナーが低く息を吐く。
> 「理性を語る国ほど、最も脆いものだ……。」
やがて、冷たい命令が下された。
王国の使節団は拘束され、王国船籍の通信は遮断。
翌朝、リュミエール政府は公式に発表する。
> 「本事件は、王国内の権力抗争による自作自演の疑いがある。」
王国の旗は迎賓館から降ろされ、
代わりに、白と青の国旗だけが冷たく風に揺れた。
雪の降りしきる夜明け、
アドリアンの遺体は氷の塔の中に封じられ、帰国を許されなかった。
そして――王国の名は、静かに“孤立”という闇へ沈み始めた。
氷の都。
夜の空気は凍りつくほど澄み、迎賓館の白壁が月光を反射していた。
その内部――金と蒼の装飾で満ちた大広間では、音楽と笑い声が絶え間なく流れている。
銀のカトラリーが皿を叩く音。
シャンデリアから滴る光の粒。
そして、繰り返される同じ言葉。
> 「再びの友好を願って――」
まるで祝詞のように、外交官たちはその言葉を口にしていた。
彼らの笑みは整いすぎていて、空気までもが人工の香りを帯びている。
王国第六王子アドリアンは、
席の中央で静かにグラスを持ち上げていた。
柔らかな金髪が光を受け、彼の横顔をほのかに照らす。
若さゆえの緊張はあったが、その瞳には確かな誠実が宿っていた。
彼は外交官として初めての大舞台に立っている。
けれど、その胸の内は不思議と穏やかだった。
――兄アランの願いを継ぐ者として、ここに立てているのだから。
> (兄上……僕は、貴方のように“理性”で国を守ってみせます。)
アドリアンは心の中で呟く。
あの優しくも厳しい兄の横顔を思い出す。
剣よりも知を、力よりも秩序を――そう信じる兄の背中。
その理想を、この場で証明したかった。
楽団の旋律が流れ、客人たちが一斉に立ち上がる。
ホールの最奥、リュミエール連邦の宰相ヴェルナーがゆっくりと杯を掲げた。
白髪に光を受け、まるで氷の彫像のように荘厳だ。
> 「王国とリュミエールの永遠なる理性と信義に――。」
響く声は静かで、重かった。
彼の周囲に並ぶ貴族や学術官僚たちも同じ言葉を繰り返す。
> 「理性と信義に。」
透明なグラスがぶつかり合い、軽やかな音が高天井に散った。
その音は一瞬、美しくも脆い氷の鐘のように響き――そして、消えた。
音楽が途切れたあとも、笑顔だけが残っていた。
その笑顔が、どこか張り付いた仮面のように見えたのは、
アドリアン自身も気づいていなかった。
> 地の文:「その夜は、誰もが平和を演じていた。
> ――理性の名の下に、沈黙という毒を飲みながら。」
乾杯の声が響いた直後だった。
白い天井から吊られた光結晶のシャンデリアが、ふと震えた。
誰も気づかぬほどの、わずかな揺らぎ。
だが、光の角度が一瞬だけ歪み――宴席の色が、静かに“ずれた”。
楽団の弦が、途切れる。
グラスを傾けたままの手が、止まる。
それは風でも、地震でもなかった。
“理性の演奏”の中に、ひとつだけ異物が混じった瞬間だった。
アドリアンの胸元。
金糸の紋章を飾る青いブローチが、淡く光を帯びる。
まるで心臓の鼓動に呼応するように、規則正しく――そして、次の瞬間。
音はなかった。
光だけが、彼を貫いた。
無音の閃光が走り、白い壁を一瞬だけ蒼に染める。
風も爆発もない。ただ、時間が“消えた”。
アドリアンの瞳が一度だけ大きく見開かれ、その中に光の残滓が映る。
> 「――兄上。」
声にならない呟き。
そのまま彼は微笑を保ち、椅子の上で静かに倒れた。
グラスが手を離れ、赤いワインがテーブルクロスを濡らす。
それがまるで、血のように見えた。
静寂。
誰も息をしていなかった。
ただ、香水と煙の匂いが、異様に濃くなっていく。
近くの侍従が慌てて駆け寄る。
その指が、アドリアンの胸元に触れた瞬間、息を呑んだ。
> 「……焼けている。」
衣服の下、心臓の真上に黒い円
晩餐の光が、止まった。
椅子が一脚、床を擦る音すら響かない。
人々は誰も叫ばず、息を呑んだまま凍りついていた。
ワインの赤が、白布の上にゆっくりと広がる。
それは血よりも鮮やかで、どこまでも静かな“死”の色だった。
アドリアンの身体は微動だにしない。
その瞳に映るシャンデリアの光が、まるで凍結した時間の中で震えている。
> 「誰が殺したか、誰も見ていなかった。
> ――にもかかわらず、全員が“王国”を見た。」
リュミエールの宰相ヴェルナーが、椅子を押しのけて立ち上がる。
冷ややかな声が、静寂を切り裂いた。
> 「……封鎖を。」
その言葉と同時に、青銀の鎧をまとった警備兵たちが扉を塞ぐ。
刃は抜かれず、魔導灯が点り、薄青い魔力の光が会場を照らした。
分析官たちが、倒れた王子の衣服を慎重に調べる。
彼らの額には冷や汗が浮かんでいる。
ひとりが小さく息を詰まらせ、震える声で告げた。
> 「この反応……王国式の魔導符号です!」
瞬間、空気が爆ぜた。
ざわめき――しかし誰も声を張り上げない。
貴族たちが互いの顔を見合い、まるで毒を含んだ沈黙を舐め合うように息を呑む。
王国の使節団の代表が一歩前に出ようとするが、
兵士の槍がその動きを封じた。
> 「待て、誤解だ!」
> 「誤解……? この場の誰が“誤解”を信じる?」
ヴェルナーの声は氷のように冷たかった。
彼の視線が、倒れた王子の胸に刻まれた焦げ跡に落ちる。
> 「この紋――我々の術ではない。
お前たちの“王国式陣”だ。」
その一言で、晩餐の“平和”は音もなく砕けた。
外交とは、理性の舞台だったはずだ。
だが今、その理性は無言の刃で貫かれた。
王国代表団は拘束され、リュミエールの紋章旗が静かに降ろされる。
光結晶の灯が一つ、また一つと消えていく。
残されたのは、ひとりの王子の亡骸と、
誰も発しない“断絶”の気配だけだった。
事件から、わずか三時間後。
リュミエール政府は異様な速さで公式声明を発した。
> 「本件は、王国内部の権力抗争に起因する自作自演の可能性が高い。
> リュミエール連邦は、友好国として事態の沈静化を見守る。」
その声明は冷徹な外交文書の形を取りながら、
事実上――王国の「狂気」を宣告するものだった。
記者会見の場では、誰も王子の名を口にしない。
“第六王子アドリアン”という存在は、
すでに“国際的な不都合”として処理されていた。
> 「理性の名のもとに、沈黙が採択されたのだ。」
同時に、王国使節団の拘束が命じられる。
護衛官たちは一列に並ばされ、無言のまま護送車に乗せられた。
彼らの肩章には、まだ王国の紋章が光っていた。
> 「発言は許可されない。抗弁は外交特権の範囲外だ。」
冷たい声が響き、彼らは国外追放の手続きを受ける。
“強制送還”――その言葉の裏に、
王国の信義が一枚ずつ剥がれ落ちていく音があった。
アドリアンの遺体は、外交儀礼の名のもとにリュミエール医療庁へと送られた。
だが、その後の引き渡し要請には一切応じられない。
王国側に届けられたのは、冷たい書簡一通だけだった。
> 「検視と調査のため、遺体は連邦の管理下に置かれる。」
つまり――彼の身体は、祖国に帰れなかった。
> 「まるで、理性が国境で立ち止まったように。」
夜のセレスティアを覆う霧の中、迎賓館の窓明かりが一つずつ消えていく。
外交とは、もはや言葉の戦いではなかった。
沈黙そのものが、最大の“武器”に変わっていた。
誰も、真実を口にしない。
――いや、口にできない。
その静寂の奥で、“設計者”の線はまた一つ、
見えぬ地図の上に引かれていった。
夜の王都は、雨を含んだ冷たい霧に包まれていた。
アランの工房では、いつものようにランプの灯が小さく揺れている。
机の上には、王都を中心に広がる精密な模型――
その北方部、リュミエールの位置に、小さな光の印が灯されていた。
外から駆け足の音。
扉が開かれ、濡れた外套のまま、報告の使者が立ち尽くす。
息を整えながら、彼は低く告げた。
> 「……第六王子、アドリアン殿下が――暗殺されました。」
その言葉は、雨音よりも静かに、部屋に沈んだ。
アランはゆっくりと視線を上げる。
答えの代わりに、ただ一つの言葉を絞り出す。
> 「…………そう、か。」
それ以上の音はなかった。
手にしていたペンが指先から滑り落ちる。
乾いた音が床に響き、やがて静寂に吸い込まれる。
ランプの炎が揺れ、机上の模型の“北方部分”――
リュミエールを象った塔が、ぱきりと音を立てて崩れ落ちた。
アランはその破片を見つめる。
指先を伸ばしても、もう戻らない形。
彼の胸の奥で、何かが静かに――崩れた。
> 「それは、兄としての悲しみか。
> それとも、理性を支える最後の柱の崩壊だったのか。」
雨音が再び強くなる。
工房の窓を叩くその音が、まるで遠い鐘のように響いた。
――理性の国に、また一人、沈黙が生まれた。




