王位継承の影
クロヴィス王子爆発事件から、十日が過ぎていた。
王都は外見こそ落ち着きを取り戻していたが、その静けさは薄氷のようなものだった。
街路を行き交う人々は、表情を消して歩く。
店は開いている、兵士も立っている、灯りもともる――
けれど、どこかが違っていた。
「理性が崩れはじめた時、人はまず“秩序”の仮面を被る。」
――アランの手記
宮殿の白い尖塔が、霧の中に沈んでいた。
石畳を渡る風は冷たく、まるでその中に“何か”の気配を運んでいるかのようだった。
王都中央宮殿。
晩餐会の準備が進められていた。
クロヴィスの事件で一時中断していた王家の公務を、
再び“正常”に見せかけるための演出だった。
侍従たちの足音が重なり、銀の食器が音を立てる。
軍と議会の要人たちは、互いに笑顔を作りながらも、
その指先がわずかに震えている。
「この宴は、血の代わりに酒を注ぐ儀式だ。」
アランはその光景を遠巻きに眺めていた。
科学局の責任者として招かれていたが、
心のどこかで、この場が“終わりの始まり”であると理解していた。
議会庁舎の一室では、別の静寂があった。
机の上には、軍の報告書、魔導通信の記録、
そして“研究所爆発事件”の未解決資料。
議員たちは口々に語る。
「軍が制御を誤った」「いや、議会派が情報を漏らした」
責任の所在を擦り合う声が、低く、陰鬱に響く。
「誰も真実を見ない。
見れば、自分が次に消えると知っているからだ。」
外では兵士の靴音が増えていた。
王都南区では、地方軍が“独自判断”で検問を始め、
議会派の貴族屋敷では、夜警が二重三重に張られる。
静けさは秩序の証ではなかった。
それは、崩壊の予感を押し殺すための“沈黙”だった。
アランの工房。
夜明け前、微かな雨音が窓を叩く。
机の上には、未完成の模型――王都全域を模した精密な縮図が広がっていた。
事件の起きた地点を赤い石で印し、
爆発の魔力波形を細い銀線で結んでゆく。
線は、奇妙に王城の中心へと収束していた。
「偶然ではない……。
すべてが、誰かの“設計図”の上に置かれている。」
指先が止まる。
アランは深く息を吐き、窓の外の闇を見た。
霧の向こう、王城の尖塔がゆらめく。
そこに灯る光は、まるで何かの“瞳”のようだった。
「理性が崩れたとき、
その瓦礫の上に、誰が王冠を置くのだろう。」
ランプの火がゆらぎ、模型の王城が淡く赤に染まる。
そして夜が、静かに、息を潜めた。
夜、王宮の大広間。
百本を超える燭台が黄金の光を放ち、
天井の鏡面に無数の炎が揺れていた。
第五王子エリアスの成人を祝う宴。
その場には貴族、軍、議会――王国の“頭脳と牙”が揃っていた。
音楽は優雅に流れ、香辛料と果実酒の匂いが満ちている。
笑い声が重なり、杯が鳴り、
あたかもこの国に不安など存在しないかのように。
だが、アランは感じていた。
その笑顔の下で、互いの視線が鋭く交差していることを。
――誰もが誰かを探っていた。
「融和を掲げる夜ほど、亀裂は深い。」
エリアス王子はまだ若く、
その穏やかな瞳に“理想”の色が残っていた。
彼は席を立ち、ゆっくりと杯を掲げる。
「兄上たちの志を継ぎ、この国に光を――」
言葉は途中で途切れた。
指先が、僅かに震える。
杯の中の紅が揺れた瞬間――
エリアスは胸を押さえ、咳き込んだ。
吐き出されたのは血。
その鮮やかな赤が、白い卓布に花のように散った。
「……殿下!?」
椅子が倒れ、楽団の音が止まる。
次の瞬間、会場全体が凍りついた。
杯が床に転がり、
割れた硝子が赤く染まる。
歓声と笑いのあった場所に、静寂が落ちた。
侍医たちが駆け寄り、魔力探知陣が展開される。
だが、救命の詠唱が終わるより早く、
エリアスの瞳から光は消えていた。
その夜、祝宴は“葬儀”へと変わった。
翌朝、王立薬術局の報告が上がる。
エリアスの杯、そして樽の中から検出された物質――
魔毒。
魔力回路を内部から焼き切る、禁術級の毒。
生成には高度な封魔炉と軍の許可が必要。
通常、戦時下でしか使用が認められない。
「軍の倉庫から、同成分の毒がひとつ――紛失していました」
報告を読み上げる声が震える。
部屋にいた全員が息を呑んだ。
誰が、軍用毒を――王族の宴に。
その疑問は、やがて王都全体を覆う“疑念の霧”となる。
軍は「議会派の犯行」と主張し、
議会は「軍の反乱の前兆」と反発。
そして、そのどちらの陣営にも属さない者たち――
アランと情報局のカミラは、沈黙の中でただ一点を見つめていた。
「これは、偶然じゃない。
――“設計された死”の、第五の線だ。」
大広間の床には、未だに赤い染みが残っていた。
それは乾いても消えず、まるで王国の“心臓”に刻まれた傷のように、
静かに、深く、広がっていった。
王都の通りは、異様なほど静かだった。
夜の雨が石畳を濡らし、人々の足音を吸い込んでいく。
だが、その静けさは――剣を抜く前の、わずかな息継ぎにすぎなかった。
第五王子の死から、まだ一日も経っていない。
それでも、王国の秩序はすでに軋み始めていた。
軍務省・作戦司令室。
壁に貼られた王都地図の上には、無数の報告書が重なっている。
各地で発生する「不明部隊の移動」「局地的な衝突」「通信途絶」。
その全てに、“原因不明”の印が押されていた。
レオン将軍は報告書を乱暴に卓上へ投げつけた。
「……誰が、誰の命令で動いている?」
副官は答えられない。
指令線が混乱している。
現場の将校たちはそれぞれに“正義”を掲げ、勝手に兵を動かしているのだ。
ある部隊は議会派の拠点を「粛清」し、
別の部隊は「王権派の先制攻撃」を恐れて、城門を封鎖した。
忠誠の名のもとに、命令が乱立し、
王国の軍が、ゆっくりと“敵”を見失っていく。
レオンは冷えた息を吐き、机上の地図を睨む。
灯火の明かりが、彼の顔の深い皺を強調していた。
「……誰かが、意図的に混乱を拡げている。」
一方、議会庁舎の廊下では、
議員たちが怯えたように行き交っていた。
扉の向こうでは、警備兵が交代制で詰めている。
「軍が動いたら終わりだ」
「彼らは、王家の威光を口実に、我々を排除する気だ」
噂が、理性を喰うように広がっていく。
誰も真実を求めず、ただ「先に撃たれる前に備える」ことだけを考えていた。
王都は火薬庫になり、
誰かが火をつけるのを、静かに待っているようだった。
その頃、アランは一人、
自室の机に広げた地図とノートを見つめていた。
インクの染みた指先で、いくつかの都市を線で結びながら、
ゆっくりとペンを走らせる。
「秩序の崩壊さえも、誰かの計算に入っている――」
その文字は、冷たい光を帯びてノートに刻まれる。
外の窓を叩く風が、
まるで見えぬ“設計者”の息遣いのように感じられた。
アランはペンを止め、
わずかに目を閉じて呟く。
「これは、自然な崩壊じゃない。
……崩れるように“作られた”秩序だ。」
机上のランプが揺れ、
壁に映る彼の影が、ふたつに分かれたように見えた。
そのもう一つの影が、
まるで“誰か”の存在を暗示するように、静かに揺れていた。
王都の夜は、どこか芝居じみていた。
晩餐会の余韻を引きずるように、各所で“非公式の会談”が開かれている。
軍の上層、議会の幹部、貴族連盟、商会の代表――
誰もが表向きは沈静を装いながら、裏では次の一手を探っていた。
その場のどこにも、必ずルーク第二王子の姿があった。
彼は穏やかに笑い、
誰よりも落ち着いた声音で、こう言った。
「我々は兄弟です。争う理由など、どこにもないでしょう?」
その言葉は、あまりに自然で、誰も反論できない。
議員たちは頷き、将校たちは安堵の溜息をつく。
だが――その場を去った後、皆が同じ違和感を覚える。
彼が残した“静けさ”は、妙に人工的だった。
嵐の前の、完璧に整えられた無風。
ある夜、軍務省の控え室。
ルークは少人数の会合に現れ、軽い口調で話題を転がしていた。
「アラン殿下の容体はどうです? 最近お疲れのようで……」
「研究局の警備、あれで十分でしょうか。あの方は、狙われやすい性分ですからね。」
将校たちはその質問に困惑しつつも、丁寧に答える。
だが、会話の本質はそこにはなかった。
彼が知りたいのは――**王都で最も理性的な男の“位置”**だった。
翌日、議会庁舎の裏サロン。
貴族の輪に混ざり、ルークは再び“調停者”を演じていた。
笑みを浮かべながら、グラスの縁を軽く回す。
「兄上たちが次々と……不幸なことですね。
でも、私は信じております。
この国を壊す者がいるとしても、それは“外”ではない、と。」
その言葉の一拍の後、
ルークの視線が、鏡越しに自分自身の姿を映した。
微笑の裏に、一瞬、光のようなものが閃く。
それは、理性の仮面の奥で、何かを測っている眼差し。
「彼の言葉は優しかった。
だが、その優しさは、刃を包む布のように薄く、冷たい。」
ルークの足跡は、どの陣営にも残らなかった。
誰も彼を敵視せず、誰も彼を味方とも言えない。
――ただ一人、アランだけが、
彼の“沈黙の重さ”に気づき始めていた。
夜は、雨の音とともに降りていた。
工房の窓を叩く雨粒が、静かな部屋の中でやけに大きく響く。
机の上には立体模型――王都の縮図。
無数の細い線が交錯し、事件の起点と終点を繋いでいる。
アランはランプの光の下、震える手で一本の線を引いていた。
ペン先が紙を擦る音が、雨音に溶ける。
そのとき。
コン、コン。
扉が、柔らかく二度叩かれた。
彼は顔を上げる。
この時間に訪れる者など、いないはずだった。
扉を開けると、そこにルークが立っていた。
黒い外套の裾から、雨粒がぽたりと床に落ちる。
手には小さな籠。
「兄上、お疲れでしょう? 少し甘いものでも。」
その声は、以前と変わらぬ穏やかさを帯びていた。
だが、雨に濡れた瞳の奥には、何か硬質な光があった。
アランは疲れた笑みで籠を受け取る。
「……ありがとう。気を遣わせたね。」
ルークは部屋を見回し、机上の模型に目を留める。
立体模型の王都。
街路の線、軍施設、議会庁舎、そして――王城。
それらを繋ぐ、淡い線の軌跡。
ルークは無言で歩み寄り、指先で王城の尖塔を軽く弾いた。
カチン。 乾いた音が響く。
「兄上、もしこの城が――丸ごと消えたら、どうなりますか?」
アランの手が止まる。
ペン先から、インクが一滴だけ紙に落ちた。
ルークの口元がわずかに歪む。
「……面白くないですか?」
一瞬、時間が止まったようだった。
火も灯っていないのに、冷たい風が室内を通り抜ける。
地の文:
「火のない部屋に、冷たい風が流れた。
ルークの瞳の奥に、かすかな“設計の色”が揺らめいていた。」
アランは、声を失ったまま弟を見つめる。
ルークは、いつもの笑みを取り戻した。
「冗談ですよ、兄上。……お休みなさい。」
軽く頭を下げ、扉の向こうへ消える。
外では、雨が静かに強まっていた。
扉が閉まる音だけが残る。
アランは動かない。
視線はただ、模型の王城部分へ。
ギリ……
彼の指の中で、王城の尖塔が軋み、
小さく、折れた。
雨は、まだ止まなかった。
工房の屋根を叩く音が、まるで遠くの心臓の鼓動のように響いている。
アランは、机の前にひとり座っていた。
扉の向こうに消えた弟の足音は、もう聞こえない。
ただ、残されたのは――籠の中の包み。
彼はゆっくりと布を解いた。
中から現れたのは一本のワインボトル。
赤い封蝋。銀のラベル。
その銘柄を見た瞬間、アランの呼吸が止まる。
――《ロート・エレミア》。
第五王子エリアスが、最後に口にしたワイン。
指先が微かに震えた。
ラベルの端を指でなぞると、そこに淡い魔力の痕が浮かび上がる。
細く、緻密な線が複雑に絡み、まるで印章のように残されていた。
「……やはり、そういうことか。」
アランの声は、ほとんど息のようだった。
「血と理性の境界は、もはや溶けていた。
兄弟の中の誰かが、“設計者”の名を冠している。」
ランプの炎がゆらぎ、机上の模型を照らす。
赤く染まる王都。
その中心、王城の尖塔が――血の色に沈む。
アランは静かに目を閉じた。
ランプの火が揺れ、ふっと細くなり、やがて――暗転。




