“見えぬ敵”
夜は、王都を包み込んでいた。
雨上がりの石畳はまだ濡れ、霧が地を這うように街を覆っている。
街灯の光はその中に溶け、ぼんやりと滲む橙色の輪を描いていた。
遠くで鐘が一度だけ鳴り、すぐに静まる。
風も止み、音という音が吸い込まれるような静寂――
まるで王都そのものが、呼吸を潜めているかのようだった。
見張り塔の上では、魔導灯が淡く明滅を繰り返している。
規則的な光が霧を照らし、幻のような影をいくつも生み出す。
その光の奥――屋根の上を、ひとつの影が静かに動いていた。
黒衣の人物。
足音ひとつ立てず、瓦の上を滑るように歩く。
王宮の尖塔が霧の向こうにぼんやりと浮かぶと、影は一度だけ立ち止まった。
フードの奥、わずかに光る瞳。
その視線は、遠くの塔――王家の象徴たる白い尖塔を真っすぐに見据えていた。
次の瞬間、霧が濃く流れ込み、影はその中へと消える。
――何者も、彼の存在を知らない。
だが確かに、その夜、王都の上を“何か”が歩いていた。
それはまだ、誰の命令にも属さぬ動き。
そして、誰も制御できぬ“意図”の始まりだった。
夜は、王都を包み込んでいた。
通りの灯はすでに落ち、残るのはわずかな魔導灯の淡い輝きだけ。
霧が石畳を這い、湿った空気が肌を撫でる。
風は止まり、鐘楼の音も沈黙していた。
まるで都市そのものが、息を潜めているかのように。
高くそびえる見張り塔の上では、ひとつの魔導灯が断続的に点滅を繰り返している。
その光が濃霧を透かし、街並みの輪郭をぼやかした。
流れる光が霧の中を走り、まるで血流のように王都の静脈を描いていく。
――すべてが、嵐の前の静けさだった。
霧の向こう、王城の尖塔をかすめるように――黒い影が動いた。
屋根瓦を踏みしめる足音は、湿った夜気に溶けて消える。
影はゆっくりと立ち止まり、沈黙の王宮を見下ろした。
その姿は人のようでありながら、どこか“形”を持たぬ闇そのもののようでもあった。
風が吹き、衣の裾が音もなく揺れる。
霧の中でその輪郭が一瞬だけ浮かび上がり――次の瞬間、ふっと掻き消える。
まるで、存在そのものが最初からそこになかったかのように。
「それは、誰の命令も受けていない動きだった。
――“設計”の線が、再び描かれ始めていた。」
映像がふっと切り替わる。
まるで時間が止まったかのように、静止した空気の中――蝋燭の炎だけが、かすかに揺れていた。
アランの工房。机の上には散乱した資料と、焦げ跡の残る封筒。
中央には、一枚の地図が広げられている。
赤い印が二つ。
一つは《グレイス峠》――ルーク殿下の馬車転落地点。
一つは《アステリア飛行場》――ユリウス殿下爆発現場。
その二点を結ぶように、細い線が一本、鉛筆で引かれていた。
まるで無意識の走り書きのように。
だが、その線の延長上に――王城の中心が、ぴたりと重なっている。
「二つの死を結ぶ線。
その線が、王国の心臓を貫いていた。」
次の瞬間、光の反射で地図の上に、かすかな三角形が浮かび上がる。
偶然か、それとも“誰か”の意図か。
その形はまるで、見えざる設計図の基点を示していた。
「それは、まだ誰も知らない“設計された死”の座標図。
王国の心臓に向かう線は、すでに描かれていた。」
蝋燭の火がふっと揺れ、大きく跳ねる。
光が地図の上を走り、三角の線をなぞるように滲んで消える。
そして――暗転。
遠くで、雷鳴が低く響いた。
静寂の中で、物語は次なる闇へと沈んでいく。




