軍部の内部不安 ― “沈黙の反乱”1
夜が、王都を沈黙で包んでいた。
軍務省・総参謀室――重厚な扉の向こうには、焦げた鉄と紙の匂いが残っている。
机の上には、開かれた報告書と通信符号の束。
地図の上には、赤い印が幾つも刻まれ、まるで血の跡のように散っていた。
窓の外では、遠雷がくぐもった音を立て、分厚い雲を裂くように閃光が走る。
雨は細く、しかし止む気配を見せない。
そのたびに、執務室の壁にかけられた軍旗の影がゆらぎ、炎のように揺れた。
レオン・ハーゲンは、机に両肘をついたまま動かない。
その目は、燃え尽きかけた暖炉の炎を見つめている。
赤い火が、灰の中でかすかに脈打つ――まるで消えゆく理性の灯のように。
「静寂の中にあるものは安らぎではない。
それは、次に燃え上がる怒りの予兆だった。」
扉が荒々しく開き、雨の匂いをまとった若い士官が飛び込んだ。
靴音が床を叩く。室内の静寂が一瞬で裂ける。
「――レオン閣下、士官学校内で小規模な暴動の兆しがあります!」
その声は震えていたが、恐れよりも焦燥の色が濃かった。
書類の束を握りしめた手が、汗で湿っている。
「学生や若手士官の一部が“議会派討伐”を掲げ、集会を始めています。
まだ実弾の使用はありませんが……武装解除命令に抵抗の動きが。」
室内に重い沈黙が落ちた。
レオン・ハーゲンは顔を上げず、視線だけで報告書に目を走らせる。
その眉間に刻まれた皺が、ゆっくりと深くなる。
「……背後に、誰がいる。」
士官は一瞬、言葉を詰まらせた。
「上層部の……一部が、黙認している可能性が。」
レオンは無言のまま、視線を窓の外へ向けた。
夜の王都は、雲に覆われて星ひとつ見えない。
遠く、雷鳴が低く響く。
「闇の中で燃え上がる炎ほど、制御は難しい。
そして今、軍という名の獣が、王都の中で牙を研ぎ始めていた。」
会議卓の上で報告書が散らばり、雨音が窓を叩く。
沈黙を破ったのは、まだ若い参謀補佐の怒声だった。
「――殿下を二人も失ってなお、議会派を生かすのは愚策です!」
彼の拳が机を打ち鳴らし、紙の山が震える。
「我々軍が動けば、数時間で鎮圧できます! この混乱も収まる!」
周囲の将校たちも顔を上げた。
その瞳には、同じ憤りと、同じ方向の“正義”が宿っている。
王家への忠誠、国の秩序――その名の下に、彼らは刃を握る覚悟を固めていた。
だが、レオン・ハーゲンは動かない。
低く、抑えた声で――それでも確実に、場の熱を凍らせた。
「……それは鎮圧ではない。“粛清”だ。」
若い将校が言葉を失う。
しかし彼の瞳に宿る炎は、まだ消えない。
それは理性では消せない火――信仰にも似た、盲目的な正義。
「怒りは容易に命令へと姿を変える。
だが、その命令が“正義”を名乗る時――
もはや誰にも、止めることはできない。」
報告が終わるより早く、扉が叩きつけられた。
息を切らした通信兵が、濡れた伝令紙を胸に抱えたまま叫ぶ。
「報告! 士官学校だけではありません! 王都外縁の第二兵舎でも――議会派幹部の拘束、いえ、“狩り”が始まっています!」
室内の空気が一瞬で張りつめた。
地図の上に落ちた蝋燭の炎が揺れ、影が踊る。
「さらに、一部の中隊が無断で出動準備に入っています! 命令記録には空白が――」
レオンの拳が、机を叩いた。
乾いた音が、雷鳴のように室内を裂く。
「……誰の命令だ。」
通信兵は震える声で答えた。
「不明です。命令系統が……分断されています!」
その瞬間、外で雷が走った。
稲光が窓を切り裂き、レオンの横顔を一瞬だけ照らす。
鋼のような瞳が、嵐の中の光を映していた。
「それは命令なき進軍――“沈黙の反乱”。
理性を失った組織が、ひとりでに動き出す。
もはや、誰にも止められない。」
レオンは、ゆっくりと椅子を離れた。
背後では、まだ誰かが報告を続けている。
だがその声は、もはや彼の耳には届いていなかった。
彼は窓辺に立ち、深い闇の中で蠢く王都の影を見下ろす。
厚い雨雲の下、遠雷が低く唸り、稲光が塔の尖端を白く照らした。
「王家を守るための剣が、己を斬るか……。」
低く、誰にともなく呟く。
その声には怒りよりも、諦念に似た静けさがあった。
「怒りを統べられぬ軍など、獣と変わらん。」
暖炉の火が、ぱち、と小さく爆ぜた。
赤い火花が宙を舞い、散らばった報告書の端をかすめる。
揺らめく光が地図の上を舐め、王都の印を照らす。
まるでそこから――炎が静かに広がり始めるかのように。
「夜はまだ終わらない。
だが、もはやこの国の“夜”は、自然に明けるものではなかった。」
暴走する軍。
沈黙する議会。
そして――記録の“空白”を追う男、アラン。
その夜、国家の歯車は、静かに軋みを上げて回り始めていた。




