軍部の動揺 冒頭 ― 新たな死(事件発生)
王都南東のはずれ、アステリア実験基地。
滑走路を囲む鉄柵の向こうには、灰色の空が低く垂れ込めていた。
風は湿り、どこかぬるい。
遠くで金属を叩く音、工具の擦れる音、靴音――それらが一つに溶け合い、場を支配する緊張の律動となっていた。
整列する兵士たちは誰一人として言葉を発さない。
吐息すら、曇天の下では許されぬ雑音のように感じられた。
魔導飛行艇《アーク=ファルクス》が、滑走路の中央で静かに息づく。
銀色の外殻に刻まれた紋章が、薄い雲間の光を受けて鈍く光った。
風が一度、滑走路を撫でる。旗が重たく揺れ、灰色の布地がひどく湿った音を立てた。
――空は低く、まるで重しのように人々の頭上にのしかかっていた。
その重みの下で、誰もが息をひそめている。
今日この空が、希望を映すのか、それとも新たな悲劇を落とすのか。
答えを知る者は、まだ一人もいなかった。
滑走路には、黒い軍服が整然と並んでいた。
湿った風が布地を撫で、徽章が鈍く光る。
中央には、試験機《アーク=ファルクス》。
銀色の外殻は薄曇りの空を映し、魔導炉の低い唸りが地面をわずかに震わせていた。
霧のような蒸気が機体の周囲を漂い、まるで獣の吐息のように見える。
その静謐を破るように、背後から足音が響く。
整列する兵たちの列の間を、白いマントを翻して一人の青年が進む。
第三王子、ユリウス・リオネル。
彼はいつもの明るさをまとい、軽く片手を上げて笑った。
「いい風だ。――今日こそ、空の神に我らの技術を見せようじゃないか。」
その声はよく通り、曇天を押し上げるように響いた。
兵たちは一斉に敬礼。
だが、応える笑顔の奥に潜む“静けさ”を、誰もまだ言葉にできなかった。
風が止む。
次の瞬間、滑走路を覆う霧がわずかに揺れた。
その揺らぎが、まるで何かを“拒む予兆”のように――空の底から忍び寄っていた。
ユリウスは、滑走路をゆっくりと歩いた。
《アーク=ファルクス》の銀翼が陽の届かぬ空を映し、曇天の下でもどこか神聖な威容を放っている。
周囲には整備兵たちが整列し、緊張の面持ちで殿下の足取りを追っていた。
彼は一人ひとりに声をかけ、軽く肩へ手を置く。
その所作は気さくで、同時に威厳があった。
――だが、ある一点で彼の歩みが止まる。
ひとり、他と違う整備兵がいた。
フードの影に顔を隠し、胸元の所属章が外されている。
「おい、君。ここの固定具は確認済みか?」
ユリウスが問いかける。
男は一拍遅れて顔を上げ、短く答えた。
「……はい、殿下。問題ありません。」
低く、くぐもった声。
その響きに、ユリウスはわずかに眉をひそめる。
しかし、忙しげな整備音と報告の声が次々と飛び交い、その違和感は霧のように紛れた。
「そうか。なら頼んだぞ。」
そう言って、ユリウスは軽く頷き、次の点検へ向かう。
男は深く頭を下げたまま動かない。
――その一瞬、影が揺れた。
後に残された魔導飛行場の映像記録には、
その男がユリウスへ何かを“手渡していた”ようにも見える。
ほんの一瞬、光の反射が二人の間を走り、魔導炉の端に微かに紋様が浮かんでいた。
今はまだ、誰もその意味を知らない。
ただ、静かな風だけが、滑走路の上を通り過ぎていった。
信号旗が振られた。
整列した兵たちが息を呑み、滑走路の空気が一瞬だけ静止する。
ユリウスは操縦席に腰を下ろし、手袋越しに操縦桿を握った。
魔導炉の起動音が機体全体に伝わり、金属の骨格を震わせる。
振動は次第に高まり、青白い光が機体の腹から脈打つように広がった。
「推進炉、出力安定――」
「離陸準備完了!」
指揮塔の窓越しに、赤旗が大きく振り下ろされる。
次の瞬間、《アーク=ファルクス》は地を蹴った。
風を切り裂く音と共に、滑走路の砂塵が舞い上がる。
機体が加速し、金属が悲鳴を上げるようにきしむ。
そして――重力が解かれる感覚。
銀翼が雲を裂いた。
その瞬間、地上の誰もが胸を張った。
王家の未来は、まだ空を掴める――そう、誰もが信じた。
上昇角は完璧。
魔導炉の光は安定し、蒼い輝きが雲の切れ間に軌跡を描く。
だが、わずか数秒後。
光が――脈打った。
「……? 出力、変動?」
管制塔の報告が重なる。
「魔力出力、異常反応!」
ユリウスの声が通信に入る。
「心配するな、すぐ戻――」
言葉は、閃光に呑まれた。
白い光が一瞬、空を貫いたかと思うと、
轟音が大地を震わせた。
機体中央が弾け飛び、翼が折れ、
黒煙の尾を引きながら、火の鳥のように落ちていく。
炎が空を染め、雲の切れ間に燃える残骸が散った。
爆風が滑走路をなぎ払い、兵たちの悲鳴が遅れて響く。
――轟音が空を裂き、火の花が咲いた。
だが、それは誰の祝福でもなかった。
誰も、声を出せなかった。
滑走路に吹きつけていた風が、爆炎の熱でねじれ、止まった。
ただ、黒煙が重たく立ちのぼり、
空からは金属の破片が、鈍い音を立てて降り注いだ。
焦げた油の匂い。
焼けた鉄のきしむ音。
兵士たちは呆然と立ち尽くし、
誰一人として、崩れ落ちる“空”に手を伸ばそうとしなかった。
やがて、風さえも止む。
灰が舞い、滑走路の上に雪のように降り積もる。
――再び、“空”が落ちた。
そして王国は、その重みをまだ理解していなかった。
画面が暗転する。
炎の赤がわずかに残り、
崩れた機体の中で、ユリウスの胸章が一瞬だけ光を反射する。
それは王家の象徴――
だが次の瞬間、炎の中で崩れ、
王国の紋章と重なるように、静かに闇へと沈んでいった。




