模型工房 ― 新たな執念の始まり
王城の鐘が、三度、夜を裂いた。
その音が遠くへ消えるころ、北棟の奥――誰も寄りつかぬ古い一室に、かすかな灯がひとつだけ揺れていた。
模型工房。
木の香りと油の匂いが混じる、無機質な空間。壁には道具が整然と並び、蝋燭の光がそれらの影を長く歪めていた。
窓の外は霧に包まれ、王都の灯りがぼんやりと滲んでいる。まるで、世界そのものが深い息を潜めているようだった。
雨はすでに止んでいた。だが、屋根から落ちる雫が、時折、静寂を破る。
その音がひとつ響くたび、アランの筆先が小さく動く。
机の上には羊皮紙、木片、定規、そして新しい墨壺。
彼は黙々と線を引き、木を削り、図面を描いていく。
火の明滅に合わせ、影が壁を這う。
それはまるで、まだ形を持たぬ「何か」がこの部屋で息づいているようだった。
アランの背に、夜の気配がまとわりつく。
しかし、彼は顔を上げない。
彼の世界はすでに、蝋燭の円の内側――この机の上にだけ、存在していた。
アランは無言のまま、椅子を引いた。
木の脚が床を擦る音が、工房の静寂に溶けていく。
外套の裾はまだ湿っていた。遺体安置室から戻ったばかり――その湿り気は、雨ではなく、まだ乾かぬ夜の痛みのように重い。
机の上には、新しい羊皮紙。
蝋燭の灯がその上で揺れ、淡い影を生む。
アランは筆を取り、墨壺に静かに浸す。
滴が落ちる。
黒い点が紙の上で息を吸い、やがて線となって走り出した。
彼の手は震えなかった。
だが、指先に宿るものは祈りではなく――執念だった。
線はゆっくりと、しかし確実に地形を描き出す。
山脈の稜線、谷、崖。
そして、ひときわ濃い筆致で一箇所を囲む。
アランは筆を止め、わずかに息を吐いた。
紙の隅に、静かに文字を書く。
『グレイス峠周辺地形模型』
その題字が、墨の香とともに夜気へ溶けていく。
――ここからすべてが、再び組み上がっていく。
アランは細いペン先を紙の上に滑らせた。
羊皮紙の上で、淡い墨線が重なり、崖道の輪郭を浮かび上がらせていく。
そこに木片を慎重に配置し、角度を確かめながら接着剤を流し込む。
鉛筆の擦れる音、金属ピンの微かな打音、そして蝋燭の燃えるかすかな破裂音。
それらが、夜の工房を満たす唯一の音楽だった。
作業のテンポは一定だった。
一筆も、一呼吸も、狂いがない。
まるで戦略図を引く軍司令官のような正確さ――そこには、悲嘆も迷いも入り込む余地がなかった。
「事実は図面に残る。
言葉より正確で、血より冷たい記録だ。」
アランの唇が、低くその言葉を紡ぐ。
筆先が止まり、静寂が戻る。
彼の視線が、ふと棚の奥を捉えた。
そこには、布をかぶせられたままの大きな模型――王城の地下構造の縮図。
闇の中に沈むその輪郭は、まるで“見えない真実”の形を模しているかのようだった。
蝋燭の炎がわずかに揺れ、模型の影が紙面に伸びる。
その影は、ちょうどアランの描いた崖線の上に重なった。
偶然ではなく――まるで、何かが彼を導いているように。
アランは机の端に並べられた細い木針を一本、慎重に摘み上げた。
指先でわずかに角度を確かめ、完成しつつある地形模型の一点――
“グレイス峠”と記された崖の縁へと、ゆっくりと突き立てる。
針が木の地盤を貫く小さな音が、静寂の中に響いた。
金属の先端が蝋燭の炎を受けて、一瞬だけ赤く光る。
それは血の滴にも似て、模型の中でただひとつ、異様な生を放っていた。
アランの視線は、その光から逸れない。
瞳の奥に宿るのは、悲しみではなく――探求の冷たい火。
「兄上……あなたが見た景色を、私が再現してみせる。」
低く、誰に聞かせるでもなく呟いた声が、木壁に吸い込まれて消える。
蝋燭がわずかに揺れ、針の影が模型全体に伸びる。
その影は、やがて王国を覆う“闇の地図”のように、机上に広がっていった。
蝋燭の炎が、ひときわ強く揺れた。
その光が模型の上を流れ、崖と谷の陰影を浮かび上がらせる。
木片で組まれた小さな山脈が、まるで生きて呼吸しているかのように、赤と黒のコントラストを繰り返す。
光と影の境界――そこにこそ“真実”があるかのようだった。
アランは静かに筆を置き、手元の図面をたたんだ。
机の上に立つ模型を見下ろすその眼差しには、悲しみの色はなかった。
そこにあるのは、凍てついた決意だけ。
(地の文)
「その夜、王国の運命は、ひとつの小さな模型の上で動き始めた。」
炎がふっと揺らぎ、崖の影が壁を這う。
それは、誰にもまだ見えぬ“復讐の設計図”の輪郭を描いていた。
――夜の工房に、ひとつの模型が生まれた。
静寂の中で形を得たそれは、ただの木片の集まりではない。
一片ごとに刻まれた線は、血の跡にも似て、崖の曲線を正確に描き出していた。
蝋燭の炎がかすかに揺れ、模型の上に影を落とす。
その影は、まるで誰かの亡霊が見下ろしているかのように重く沈む。
(地の文)
「それは、第二王子の死を解く“設計図”となる。」
そしてこの夜、アランの手が動かした小さな針が――
やがて王国のすべてを貫く“真実の座標”となることを、
まだ誰も知らなかった。




