アランの視点 ― 対面と直感
王都議会で「事故」として処理が決まってから、数時間後。
太陽はすでに傾き、窓の外では灰色の雲がまだ重く垂れ込めていた。
冷たい風が石畳を撫で、雨の名残が細かな雫となって王宮の壁を伝う。
北棟の地下。王家の墓所に隣接する安置室。
そこは、王族の死がまだ「告げられていない」者のための場所だった。
蝋燭の炎が、石造りの壁にゆらゆらと影を投げる。
空気は湿っていて、冷たい。
どこか鉄の匂いが漂っているのは、血ではなく――哀しみそのものの匂いのようだった。
壁際には、王家の紋章を金糸で縫い取った黒布が垂れ下がっている。
その前で、無言の兵たちが直立不動のまま見張りを続けていた。
誰も声を出さない。
声を出すことすら、この静寂を汚す行為のように思えたからだ。
中央の台座の上、白布に覆われた人影が一つ。
その形は整えられ、まるで今も眠っているかのように穏やかだ。
だが蝋燭の炎がその布の縁を照らすたび、焦げたような黒ずみが浮かび上がる。
扉の向こうから、靴音が一つ。
乾いた音が、石室全体に低く響いた。
アラン・フォルティス。
若き王子にして、亡き第二王子ルークの弟。
彼の足元に、蝋燭の光が落ちる。
ゆっくりと進むその影は、まるで時が止まった空間を切り裂くかのようだった。
沈黙の兵たちが一斉に姿勢を正す。
その動きさえ、石造りの空間では重い響きを持って返ってくる。
冷たい石室、黒布の垂れる壁、蝋燭の淡い灯――
そのすべてが、まるで王国そのものが“息を潜めている”ような気配を放っていた。
そして、静寂の中心で。
白布に覆われた“彼”が、永遠の眠りについている。
石室の扉が、重たい音を立ててゆっくりと開いた。
軋む音が静寂を裂き、湿った空気が外の廊下から流れ込む。
入ってきたのは、黒い外套を羽織った青年――アラン・フォルティス。
足を踏み入れた瞬間、蝋燭の炎が微かに揺れ、影が壁を這った。
奥で控えていたカミラと侍従が、同時に姿勢を正して敬礼する。
アランはそれに短く頷くだけで応じた。
言葉はなかった。
声を出すことすら、この空気にとっては不敬のように思えた。
石室の中央、黒布を垂らした台座の上。
白布が静かにかけられた人影が一つ。
蝋燭の淡い光が、布の端を淡く照らし、金糸の縁を一瞬だけきらめかせた。
アランは足を進める。
靴底が冷たい石床を踏むたび、微かな音が響き、壁に反射して戻ってくる。
衣の裾が床に擦れ、そのわずかな音が妙に鮮明に耳へ届いた。
空気は湿って重く、息を吸うたびに肺が冷たくなる。
それでも、彼はゆっくりと歩みを止めなかった。
一歩、また一歩――。
その足取りは、まるで何かを確かめるようでもあり、儀礼の一部のようでもあった。
「その歩みは、まるで永遠に続く儀礼の一部のようだった。」
蝋燭の炎が再び揺れ、静寂がその形を取り戻す。
そして、アランは台座の前で立ち止まった。
アランは台座の前で立ち止まり、しばし動かなかった。
蝋燭の火が静かに揺れ、白布の端を黄金色に染めている。
やがて、彼は何の言葉もなく手を伸ばした。
指先が布に触れる。
ひどく冷たい――まるでその温度そのものが「死」の定義であるかのように。
静かに、布がめくられていく。
淡い光が、無残に焦げた顔を照らした。
皮膚の多くは焼け落ち、形を留めていない。
だがその右手にだけ、わずかに金属の光が残っていた。
王家の紋章を刻んだ指輪。
それは煤で黒く汚れながらも、確かに存在を主張している。
カミラが一歩前に出て、低く告げた。
「指輪の刻印により、ルーク殿下と確認されました。」
彼女の声には、感情の揺れが一切なかった。
だが、蝋燭の光が頬をかすめたとき、その目の奥にわずかな痛みが走る。
アランは頷いた。
ほんのわずかに。
それから、再び視線を落とす。
目の前の現実を、受け入れるでもなく、拒むでもなく――
ただ、静かに凝視する。
沈黙の中、蝋燭の火がまたひとつ、音もなく揺れた。
アランの視線が、焦げた指輪の上で止まった。
蝋燭の炎がゆらりと揺れ、その金属光を淡く照らす。
(……あれほど人の顔色を読む男が、足場の悪い道を選ぶはずがない。)
心の中に浮かんだ言葉は、音にならなかった。
ただ、唇の端がわずかに動く。
そしてもう一度、心の奥底で確信のように響く。
(兄上……あなたは、“殺された”のか。)
空気がわずかに震えたように感じた。
誰かの呼吸が止まった気配。
カミラがその一瞬の動きを見逃さなかった。
彼女は何も言わず、ただ黙って立っている。
表情には冷静さが張り付いたままだが、
その眼差しの奥――かすかに宿る光が、すべてを物語っていた。
アランはその沈黙を理解した。
言葉などいらない。
問いと答えは、すでにこの場で共有されている。
沈黙の中に、言葉よりも確かな同意があった。
蝋燭の火がまた小さく揺れ、二人の影を壁に映す。
その重なった影は、まるで“真実”という名の刃をひとつにしているかのようだった。
アランは、深く一度だけ息を吸った。
そして白布を、丁寧に――まるで儀式のように――兄の顔へとかけ戻す。
その手には震えがなかった。
感情は、すでに氷のように沈黙へと変わっている。
ただ、指先のわずかな圧だけが、別れの痛みを物語っていた。
一歩下がり、蝋燭の炎を見上げる。
その小さな灯が、今にも消えそうに揺れている。
「これが……始まりだ。」
低く、誰にも聞こえぬ声で呟く。
その瞬間、炎がひときわ強く揺れた。
光がアランの瞳に映り、
その奥で何かが――静かに、確かに――ひび割れる。
かつて“理性の政治家”と呼ばれた男の仮面に、
初めて、裂け目が走った。
それは悲しみでも怒りでもない。
ただ、“動く”という意志の火が、そこに生まれたのだ。
「……葬儀の準備が整い次第、王宮より通達が出ます。」
カミラの声は、蝋燭の炎に溶けるように低く響いた。
アランは短く頷く。
「任せる。」
それだけを言い残し、視線を落とす。
足元、白布の端から覗くわずかな影――
そこには、兄の焦げた指輪が落ちていた。
誰も拾わない。
誰も、言葉を発しない。
ただ蝋燭の炎が、影を細く伸ばし、
アランの靴の先と重なって、ひとつになる。
「その影が、やがて王国を覆う闇へと繋がっていくことを、
この時、誰も知らなかった。」
炎が揺れるたび、
その影はまるで、生き物のように脈打っていた。




