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第74話「エリーゼの決断」

 深夜の王都の街並みを見下ろすローゼン侯爵邸の居間に、緊張した空気が漂っていた。エリーゼは家族の前に立ち、背筋を伸ばしている。父親のアルベルト侯爵、母親のロザリア夫人、兄のマルクス、そして主要な親族が居並んでいる。


 「エリーゼ」


 父の声は低く、威厳に満ちていた。


 「最後の機会だ。グランヴィル公爵家との婚約を受け入れれば、すべてを水に流そう」


 エリーゼの胸の奥で、何かが軋んだ音を立てた。家族への愛情と、正義への信念が激しくぶつかり合っている。


 「父上……」


 声は小さく震えていたが、エリーゼは顔を上げた。


 「私は、改革を支持します」


 その瞬間、部屋の空気が凍りついた。


 「愚か者が!」


 マルクスが立ち上がり、拳を震わせた。


 「レオン・グレイなどという三流魔導師風情のために、五百年続いたローゼン家の名誉を捨てるというのか!」


 エリーゼの心臓が激しく鼓動した。家族の失望した顔が、胸に重くのしかかる。


 「三流……ですって?」


 エリーゼの声が、部屋に響いた。


 「あの方は、五百年続いた不正義を正そうとしているのです」


 「不正義だと?」


 父アルベルトの眉が跳ね上がった。


 「我々が築き上げてきた秩序を、不正義と呼ぶのか?」


 「はい」


 エリーゼの声は、もう震えていなかった。


 「女尊男卑システムは、政治的操作の産物です。真の実力ではなく、性別による差別制度です」


 母ロザリアが、悲しそうに首を振った。


 「エリーゼ……あなたという人は……」


 「母上、お聞きください」


 エリーゼは一歩前に出た。


 「レオン様の改革で、どれだけの人々が救われるか。知識が開放されれば、男女問わず、本当に有能な人材が社会で活躍できるようになります」


 「それが何だというのだ」


 マルクスが冷笑した。


 「下層階級の人間が這い上がってきて、我々の地位を脅かすだけではないか」


 その言葉に、エリーゼの中で何かが決定的に壊れた。


 「兄上……それが、ローゼン家の本音ですか」


 エリーゼの瞳が、静かに燃えていた。


 「自分たちの既得権益のために、他の人々の可能性を踏みにじることが、名誉ある貴族の務めだと?」


 「当然だ!」


 マルクスが吐き捨てた。


 「それが貴族というものだ。弱者から強者への自然な秩序だ」


 エリーゼは、深く息を吸い込んだ。胸の奥で、最後の迷いが消えていく。


 「分かりました」


 静かな声だった。


 「それならば、私はローゼン家を出ます」


 部屋に衝撃が走った。


 「エリーゼ!」


 母が立ち上がった。


 「何を言っているの! そんな……」


 「母上」


 エリーゼは振り向き、優しく微笑んだ。


 「母上に育てていただいた愛情に、心から感謝しています。でも、私は母上とは違う道を歩みます」


 涙が頬を伝った。母への愛情は本物だった。だからこそ、この決断は胸を引き裂くほど辛い。


 「父上」


 エリーゼは父に向き直った。


 「ローゼン家での十九年間、ありがとうございました。しかし、私はもう……この家の娘ではありません」


 父アルベルトの顔が、蒼白になった。


 「貴様……本気で言っているのか?」


 「はい」


 エリーゼの声は、確信に満ちていた。


 「私は、エリーゼ・ローゼンとして生きるのではなく……改革者エリーゼとして生きます」


 そして、エリーゼは深々と頭を下げた。


 「長い間、お世話になりました」


 頭を上げると、もうそこに迷いはなかった。


 「では、失礼いたします」


 エリーゼが部屋を出ようとした時、父の声が響いた。


 「待て!」


 振り返ると、父は震える手で羊皮紙を取り出していた。


 「これに署名すれば……勘当だ。二度とローゼンの名を名乗ることは許さん」


 エリーゼは、その羊皮紙を見つめた。家族との決別を意味する、最後の書類。


 「分かりました」


 迷わず羽ペンを取り、署名した。「エリーゼ・ローゼン」最後の署名。


 「これで、私は自由です」


 部屋を出る時、母の嗚咽が聞こえた。エリーゼの胸も締め付けられたが、足は止めなかった。


 屋敷の門を出た時、そこにレオンが待っていた。


 「エリーゼ……」


 レオンの目に心配の色が浮かんでいる。


 「大丈夫です」


 エリーゼは微笑んだ。涙は止まっていた。


 「むしろ、今が人生で一番すっきりした気分です」


 「本当に……いいのか?」


 「はい」


 エリーゼは力強く頷いた。


 「家族は大切です。でも、それ以上に大切なものがあります」


 「それは?」


 「正義です。そして……」


 エリーゼは、レオンを見つめた。


 「あなたと一緒に築く、新しい社会です」


 レオンの目が、見開かれた。


 「エリーゼ……」


 「レオン様」


 エリーゼは、改めて頭を下げた。


 「今日から私は、単なる政治的同盟者ではありません。あなたと運命を共にする、真の同志です」


 そして、顔を上げて宣言した。


 「地位も、財産も、家族も失いました。でも、その代わりに得たものがあります」


 「何を?」


 「自分の信念に従って生きる、本当の自由です」


 夜風が二人の間を通り抜けた。エリーゼの髪が、月光に輝いている。


 「レオン様、約束してください」


 「何を?」


 「この改革を、必ず成功させてください。私が失ったもの全てに意味を与えるために」


 レオンは、エリーゼの決意に圧倒されていた。この少女は、本当にすべてを捨てて改革に賭けたのだ。


 「約束する」


 レオンの声は、確信に満ちていた。


 「君の犠牲を、絶対に無駄にはしない」


 その時、遠くで鐘の音が響いた。新しい日の始まりを告げる音。


 「行きましょう」


 エリーゼは歩き始めた。振り返ることなく。


 「新しい時代の建設に、取り掛かりましょう」


 レオンも並んで歩き始めた。この瞬間、改革派は新たな同志を得た。地位や財産ではなく、純粋な信念で結ばれた、真の仲間を。


 しかし二人はまだ知らない。この決断が、これから始まる最も困難な戦いの序章に過ぎないことを。保守派の怒りは、今まで以上に激しくなり、個人攻撃も激化するだろう。


 だが今夜、一人の少女が家族を捨てて正義を選んだ。この事実だけで、改革の歴史に新たな1ページが刻まれたのだった。

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