第72話「最初の試練」
「これが現実というものなのか」
レオンは愕然としていた。アルドリア王国南東部の商業都市エルフェンハイムで実施した小規模な改革実験。その結果は、あまりにも予想とかけ離れたものだった。
統一暦512年、豊穣の月15日。『知識開放法』の本格実施前のテストケースとして選ばれたこの都市は、中規模で管理しやすく、商業が盛んで新しい制度にも順応しやすいと判断されていた。
しかし現実は違った。
「レオン様」 地方総督のカルロス・ベルナルドが苦い表情を浮かべる。「商業ギルドからの猛烈な抗議が続いています。『男女平等な取引権』の実施により、既存の契約関係が大混乱に陥っていると」
会議室のテーブルには、山積みになった苦情書類が置かれている。レオンは一枚を手に取り、内容を確認した。
『女性優位の取引慣行を突然変更されたため、長年の商取引が成立しなくなった。損失は甚大であり、責任を取ってもらいたい』
「商人たちは怒っているのではありません」 アルフィが分析結果を提示する。「困惑しているのです。既存システムに最適化された彼らにとって、急激な変化は生存に関わる問題なのです」
レオンは頭を抱えた。理念としては正しいはずの改革が、なぜこれほどまでに混乱を招くのか。
「それだけではありません」 エリーゼが険しい表情で報告する。「労働者階級からも不満の声が上がっています。『女性の職業特権』がなくなることで、多くの女性労働者が困窮する可能性があると」
これは想定外だった。差別的制度の撤廃が、逆に弱者を追い詰める結果になるとは。
「具体的にはどのような問題が?」
「例えば、織物工房では女性に優先的な雇用枠がありました。それがなくなれば、技能では男性に劣る女性工員の多くが職を失う可能性があります」
レオンは言葉を失った。女性優位のシステムは確かに男性を差別していたが、同時に女性を保護する側面もあったのだ。
「そして何より深刻なのは」 カルロス総督が声を低める。「市民の分裂です。改革賛成派と反対派が対立し、街全体の雰囲気が悪化しています」
窓の外では、改革反対のデモ隊が「伝統を守れ!」と叫んでいる。その向かい側では、改革賛成派が「平等を実現せよ!」と対抗している。
「レオン」 エリーゼが心配そうに声をかける。「あなたの顔色が悪いですが」
「いや、大丈夫だ」 レオンは立ち上がる。「現実を見せてもらおう。市民と直接話がしたい」
街の中央広場では、さまざまな市民が改革について議論していた。レオンは身分を隠し、一般市民として混じって話を聞いた。
「知識開放法なんて理想論よ」 中年の女性商人が吐き捨てる。「男共に商売のノウハウを教えたら、あたしたちの仕事がなくなるじゃないの」
「でも不公平じゃないですか」 若い男性職人が反論する。「僕だって技術を学びたいのに、『男だから』という理由で排除されるのは」
「技術なんて男には無理よ。力仕事でもしてなさい」
「それこそ偏見です!」
議論は平行線をたどり、次第に感情的になっていく。レオンは胸が痛んだ。改革は正しいはずなのに、なぜこれほど人々を苦しめるのか。
「おい、あそこにいるの、レオン・グレイじゃないか?」
ばれた。レオンが振り返ると、一群の市民が彼を取り囲んでいた。
「あんたが改革とやらを推進してる張本人か」 年配の男性が詰め寄る。「おかげで街は大混乱だ。責任を取れ」
「いや、違います」 別の女性が口を挟む。「レオンさんは英雄よ。古代魔獣から私たちを救ってくれた」
「英雄だろうと何だろうと、現実に迷惑をかけてることに変わりはない」
群衆の声が次第に大きくなる。レオンは混乱の中心に立ちながら、改革の困難さを痛感していた。
「皆さん、聞いてください」 レオンが声を上げる。「私たちの改革に不備があったことは認めます。しかし、だからといって諦めるわけにはいきません」
「きれいごとはいいから、具体的にどうするんだ?」
レオンは一瞬言葉に詰まった。理想は語れても、現実的な解決策を即座に提示することはできなかった。
「段階的に、慎重に進めます」 ようやく絞り出した言葉は、自分でも歯切れが悪いと感じた。「皆さんの意見を聞きながら、最適な方法を」
「つまり見切り発車だったってことか?」
群衆からため息が漏れる。レオンは頬が熱くなるのを感じた。
その夜、宿舎に戻ったレオンは改革派のメンバーと緊急会議を開いた。
「現実は思っていたより複雑だった」 レオンが重い口調で切り出す。「理念だけでは解決できない問題が山積みだ」
「そうですね」 エリーゼが同意する。「私も政治の勉強はしてきましたが、実際の社会変革がこれほど困難だとは思いませんでした」
「データ分析の結果」 アルフィが報告する。「現在の混乱の主な原因は三つです。第一に既存利益層の反発、第二に制度変更の技術的困難、第三に市民の価値観の多様性です」
「つまり?」
「急激な変革は不可能です。段階的なアプローチが必要でしょう」
改革派の一人、若い貴族のフリードリヒが不満そうに声を上げる。「それでは改革の意味がないのではありませんか? 妥協を重ねれば、結局何も変わらない」
「しかし現実を無視することもできません」 エリーゼが反論する。「理想を追求するあまり、社会を混乱させては本末転倒です」
「では、どうすればいいのです?」 フリードリヒの声に苛立ちが滲む。「このまま不正義を見過ごすのですか?」
会議室に重い沈黙が流れた。レオンは仲間たちの顔を見回す。皆、理想と現実のギャップに戸惑っていた。
「皆さん」 レオンがゆっくりと口を開く。「今日学んだことは決して無駄ではありません。現実の困難さを知ることができました」
「では、どうしますか?」 エリーゼが尋ねる。
「まず、急いで結論を出そうとするのをやめましょう」 レオンの声に落ち着きが戻ってきた。「今回の実験で明らかになった問題を一つずつ解決していく。時間がかかっても、確実に前進する方法を見つけるんです」
「具体的には?」
「移行期間の設定、既存システムとの段階的統合、そして何より市民との対話の継続です」 アルフィが補足する。「急激な変化ではなく、社会が受け入れられるペースでの改革が必要です」
フリードリヒが眉をひそめる。「それでは既得権益層に有利になってしまうのでは?」
「確かにリスクはあります」 レオンが頷く。「しかし、社会を破壊して再構築するよりも、修復しながら改良していく方が持続可能です」
「理想の妥協ではなく、現実的な理想の追求ということですね」 エリーゼが理解を示す。
「そうです。私たちは現実と向き合わなければならない。きれいごとだけでは人は救えないのです」
翌日、レオンは再び市民との対話集会を開いた。今度は一方的な説明ではなく、市民の声を聞くことに重点を置いた。
「昨日は失礼しました」 レオンが頭を下げる。「私たちの改革案に不備があったことをお詫びします」
市民たちの表情が少し和らいだ。
「ただし、諦めるつもりはありません」 レオンが顔を上げる。「皆さんの意見を聞きながら、より良い方法を見つけたいのです」
「具体的にはどうするんだ?」 昨日質問した年配男性が再び声を上げる。
「まず、移行期間を設けます。既存の制度を急に廃止するのではなく、新旧制度を並行して運用し、徐々に移行していく」
「それで混乱は収まるのか?」
「完全には収まらないでしょう」 レオンは正直に答える。「しかし、皆さんが適応する時間を作ることはできます」
会場から小さなざわめきが起こる。
「また、改革で不利益を被る方への支援制度も検討します」 エリーゼが補足する。「例えば、技能向上のための教育機会の提供や、転職支援などです」
「本当にやってくれるのか?」 女性商人が疑わしげに尋ねる。
「約束します」 レオンが力強く答える。「改革は皆さんを幸せにするためのものです。誰かを犠牲にして成り立つ改革など意味がありません」
集会の後、レオンは一人で街を歩いた。夕日が街並みを照らし、いつもの平和な光景が戻っていた。
「難しいものだな」 レオンがつぶやく。
「そうですね」 アルフィが答える。「社会システムの変更は、単なる技術的問題ではありません。人々の感情、利害、価値観といった複雑な要素が絡み合っています」
「でも、やらなければならない」
「ええ。ただし、賢く、慎重に」
レオンは空を見上げる。改革の道のりは想像以上に困難だった。しかし、だからこそやり甲斐があるのかもしれない。
「アルフィ、君はどう思う? 理想を現実に妥協させることについて」
「妥協と調整は違います」 アルフィが答える。「妥協は理想を諦めることですが、調整は理想に向かう最適な経路を見つけることです」
「つまり?」
「私たちは理想を妥協させているのではありません。理想への最適解を模索しているのです」
レオンの表情が明るくなった。確かにその通りだ。今日の体験は挫折ではなく、貴重な学習だったのだ。
宿舎に戻ると、エリーゼが資料を整理していた。
「お疲れ様でした」 彼女が振り返る。「市民の反応はどうでしたか?」
「まだ疑心暗鬼ですが、少し理解してもらえたと思います」 レオンが椅子に座る。「それより、君はどう感じた? 今回の実験について」
「正直に言えば、ショックでした」 エリーゼが率直に答える。「政治学の理論と現実は、こんなにも違うものなのですね」
「でも学べたことも多い」
「ええ。特に、改革には時間と忍耐が必要だということを」
その時、部屋の扉が勢いよく開かれた。フリードリヒが血相を変えて飛び込んでくる。
「大変です! 王都から緊急の報告が!」
「何があった?」 レオンが立ち上がる。
「保守派が『レオン・グレイ弾劾決議』を議会に提出したのです。今回の改革実験の混乱を理由に、あなたの査問院への影響力を削ぐつもりです」
レオンとエリーゼが顔を見合わせる。
「やはり来たか」 レオンがつぶやく。「彼らも黙って見ているわけではないということだ」
「どうしますか?」 エリーゼが尋ねる。
レオンは窓の外を見つめた。街は平静を取り戻しているが、嵐の前の静けさのようにも見える。
「王都に戻ろう」 レオンが決断する。「今度は政治の世界での戦いが始まる」
改革の第一歩は混乱で終わったが、レオンにとってそれは貴重な現実教育でもあった。理想だけでは人は救えない。しかし、理想なくして変革もあり得ない。
その微妙なバランスを取りながら、真の社会変革を実現する道。それを見つけるための試練が、今始まったばかりだった。
「レオン」 アルフィが静かに話しかける。「一つ確認したいことがあります」
「何だ?」
「あなたは今日の体験で、改革への意志が揺らぎましたか?」
レオンは少し考えてから答えた。
「いや、むしろ強くなった。現実を知ったからこそ、より良い方法で改革を実現したいと思う」
「それが聞けて安心しました」 アルフィの声に温かみがあった。「困難な道のりですが、私たちなら必ず成し遂げられるでしょう」
夜が深まる中、レオンは明日への準備を始めた。改革の道は茨の道だが、歩き続ける価値がある道だった。




