第71話「改革の狼煙」
「レオン・グレイを暗殺する」
その言葉が漏れ聞こえた瞬間、レオンの背筋に冷たいものが走った。王宮の秘密会議室へ向かう廊下の影から聞こえた密談。保守派は既に、想像以上に過激な手段を検討していた。
「これまでとは違う。本当の戦いが始まる」
レオンは震える手を隠しながら会議室の扉を開いた。統一暦512年、豊穣の月2日。第4.5章での滑稽な旧体制の崩壊劇から二週間、命を賭けた本格的な社会改革への第一歩が踏み出されようとしていた。
「エレノア院長、協力していただけるのですね」
重厚な木製のテーブルを挟んで、レオンは新しい査問院長となったエレノア・ヴァンホーテンと向き合っていた。彼女の隣には、エリーゼと数名の進歩派貴族が控えている。
「ええ、レオン様」 エレノアが毅然とした表情で頷く。「ヴィクトリアの失脚により、査問院も変わる時が来ました。あなたの理念に賛同します」
レオンは内心で安堵した。エレノアは有能な官僚として知られており、彼女の協力があれば改革の実現可能性は格段に高まる。
「では、『知識開放法』について話し合いましょう」
アルフィがテーブル上に資料を投影する。そこには詳細な法案の草案が映し出されていた。
「第一条。すべての国民は、身分・性別・出身に関係なく、知識と情報にアクセスする権利を有する」
レオンが条文を読み上げると、会議室に緊張した空気が流れた。これは、現在の女尊男卑システムを根本から覆す内容だった。
「第二条。魔術・技術・学術に関する情報は、国家機密を除き原則として公開される」
「第三条。能力・実績による評価制度を確立し、性別による職業制限を撤廃する」
エリーゼが続けて読み上げる。彼女の声には確固たる意志が込められていた。
「素晴らしい内容です」 進歩派貴族の一人、フランシス・ダルトン卿が感嘆の声を上げた。「しかし……実現は容易ではありません」
「そうですね」 レオンが頷く。「だからこそ、段階的な導入が必要です。アルフィ、技術的な実現可能性はどうですか?」
アルフィが分析結果を表示する。
「法的には問題ありません。むしろ、現行制度の方が憲法の平等原則に矛盾しています。技術的にも、情報管理システムの整備は可能です」
「問題は政治的な抵抗ですね」 エレノアが鋭く指摘した。「既得権益層の反発は激しいでしょう」
その時、会議室の扉が勢いよく開いた。警備責任者のハロルドが血相を変えて駆け込んでくる。
「申し訳ありません! 緊急事態です!」
彼の顔は真っ青だった。息を切らしながら報告する。
「保守派が……『伝統守護会』という秘密結社を設立。そして……」
ハロルドが声を震わせた。
「レオン様の暗殺計画が進行中との情報を入手しました」
会議室に重い沈黙が落ちた。
「メンバーは?」 エリーゼが顔を強張らせて問う。
「旧査問院の残党、保守派貴族、一部のギルド幹部……約200名。そして……」
ハロルドが苦渋の表情で続けた。
「傭兵団『黒狼』も雇ったようです。彼らは暗殺のプロです」
レオンの顔から血の気が引いた。『黒狼』は王国でも悪名高い暗殺集団だ。
「いつ実行される?」
「早ければ今週中にも……」 ハロルドの声が震える。「警備を強化しますが、彼らの手口は巧妙です」
「さらに」 ハロルドが続ける。「追放時の査問記録を改ざんし、レオン様を『王国の敵』として印象操作する計画も進行中です」
アルフィが苦笑した。
「悪魔崇拝とは……創造的ですね」
しかし、レオンの表情は険しかった。彼らの攻撃は単なる政治的対立を超えて、人格否定の領域に入っている。
「レオン」 エリーゼが彼の手を握った。「大丈夫。私たちがついています」
「ありがとう、エリーゼ」
レオンは仲間たちを見回した。エレノアの決意に満ちた表情、進歩派貴族たちの真剣な眼差し、そしてエリーゼの変わらぬ支援。
「分かりました」 レオンが立ち上がる。「それでも、我々は進むしかありません」
「しかし、慎重に行かねばなりません」 ダルトン卿が警告した。「性急な改革は反発を招きます」
「おっしゃる通りです」 レオンが頷く。「まずは小規模な実験から始めましょう。地方都市での試験的導入はいかがでしょうか?」
「それなら……」 エレノアが提案する。「私の故郷、ミルフォード市はどうでしょう。人口3万人程度で、比較的開明的な市長がいます」
「良いアイデアです」
会議は夜遅くまで続いた。法案の詳細、実施手順、想定される問題とその対策。一つ一つを慎重に検討していく。
「では、来週からミルフォード市での実験を開始します」 レオンが総括した。「同時に、王都での世論形成も進めましょう」
「承知しました」 エレノアが応じる。「査問院としても全面協力いたします」
会議が終わり、参加者たちが帰路につく中、レオンとエリーゼ、アルフィだけが残った。
「大変な道のりになりそうですね」 エリーゼが呟く。
「ええ」 レオンが窓の外を見る。王都の夜景が静かに広がっていた。「でも、やらなければならないことです」
「心配は無用です」 アルフィが励ます。「データ分析では、改革支持の潜在的世論は60%を超えています。表面化していないだけです」
「60%……」 レオンが希望を感じる。「それなら、いけるかもしれませんね」
「問題は、どうやってその60%を顕在化させるかです」 エリーゼが分析する。「保守派は組織力があります。我々にはそれがない」
「だからこそ、草の根から始めるのです」 レオンが決意を新たにする。「一人一人に、真実を伝えていく」
翌朝、レオンは早起きして王都の市場を歩いていた。改革の現実を理解するため、一般市民の声を聞きたかったのだ。
「おい、聞いたか? また変な動きがあるらしいぞ」
肉屋の親父が隣の八百屋に話しかけている。
「レオンって奴が、また何かやろうとしてるらしいな」
「あのAI使いの? なんだか怖いよな」
レオンの心が沈んだ。既に保守派の宣伝が効果を上げ始めている。
しかし、別の場所では違う会話も聞こえてきた。
「でも、あの人のおかげで、うちの息子も魔術師になれるかもしれないんだろ?」
「そうそう。男だからって諦める必要がなくなるなら、いいことじゃない」
「査問院の連中も、最近は偉そうじゃなくなったしな」
希望と不安が入り混じった民衆の声。レオンは改革の複雑さを改めて実感した。
「レオン様!」
振り返ると、マルクスが駆け寄ってくる。
「どうしました?」
「大変です! 保守派が……『レオン・グレイ危険人物認定』の署名活動を始めました!」
「もう始まったのですか……」
レオンは苦笑した。彼らの行動の早さは予想以上だった。
「しかし、こちらも負けてはいられません」 レオンが歩き始める。「マルクス、リリアと他のメンバーを集めてください」
「はい! でも、どうするんですか?」
「我々も情報戦を開始します」 レオンの目に強い意志が宿る。「真実で、嘘を打ち破るのです」
その日の午後、レオンたちは改革派の緊急会議を開いた。
「状況は厳しいですが」 レオンが仲間たちを見回す。「我々には真実があります。そして、正義があります」
「でも、レオン」 リリアが心配そうに言った。「相手は組織的です。我々は数で劣ります」
「数では負けても、志では負けません」 エリーゼが力強く答える。「一人一人に真実を伝えていけば、必ず理解してくれる人が現れます」
「その通りです」 レオンが頷く。「アルフィ、情報拡散の戦略を検討してください」
「既に準備済みです」 アルフィが資料を表示する。「効果的な情報伝達の手法、ターゲットとなる階層の分析、タイミングの最適化……すべて計算済みです」
「さすがですね」 マルクスが感心する。
会議が終わる頃、レオンは一人でバルコニーに出た。夕日が王都を金色に染めている。
「不安ですか?」
エリーゼが隣に来て尋ねた。
「正直に言えば、はい」 レオンが振り返る。「これまでとは規模が違います。失敗すれば、多くの人に迷惑をかけてしまう」
「でも、成功すれば多くの人を救えます」 エリーゼが微笑む。「それに、あなたは一人じゃありません」
「そうですね」
レオンは決意を固めた。確かに困難な道のりだが、仲間がいる。そして、何より変革を求める人々の声がある。
「明日から、本当の戦いが始まります」 レオンが呟く。
「ええ」 エリーゼが頷く。「でも、私たちなら大丈夫です」
その夜、王都のあちこちで密談が行われていた。改革を支持する者たち、それを阻止しようとする者たち。そして、まだ決めかねている多くの市民たち。
歴史の転換点が、静かに近づいていた。
レオンは書斎で『知識開放法』の草案を再度確認していた。一つ一つの条文に込められた理念と希望。これを実現できれば、本当に平等な社会が築ける。
「必ず成功させる」
レオンの呟きが、静かな夜に響いた。
その時、窓ガラスが音もなく割れた。
「伏せろ!」
アルフィの警告と同時に、毒針が書斎の壁に突き刺さった。レオンが間一髪で身を低くしたおかげで、針は彼の頭があった場所を通過していた。
「もう始まったのか……」
レオンは震える声で呟いた。窓の外には既に暗殺者の姿はない。
「警備を呼びます」 アルフィが即座に反応する。
「いや、待て」 レオンが制止した。「これは警告だ。本気なら、もっと確実な方法を取るはず」
毒針に結ばれた紙片を見ると、そこには血文字でこう書かれていた。
『改革を諦めろ。さもなくば、次は外さない』
改革の狼煙は上がった。しかし、それは同時に、命を賭けた戦いの幕開けでもあった。
果たしてレオンは、暗殺の脅威を乗り越えて改革を成し遂げることができるのか――?




