第66話「査問院の威信回復作戦」
「聞いたか? 査問院が魔獣討伐を実施するらしいぞ」
朝の市場で、商人たちがひそひそと噂話をしていた。統一暦512年、実りの月11日。英雄たちの凱旋から、わずか一日後のことである。
「魔獣討伐? レオン様たちがほとんど片付けたはずじゃ……」
「小型の残党がまだいるらしい。それを査問院が『正式な手順』で退治するんだと」
「はぁ……今更何を」
商人たちの呆れ顔が物語るように、査問院の評判は地に落ちていた。
一方、査問院本部では緊急会議が開かれていた。
「諸君!」
査問院幹部のグレゴリウスが、汗だくで演説していた。
「我々の威信は今、かつてない危機に瀕している! しかし、まだ挽回のチャンスはある!」
会議室に集まった査問官たちは、疲れ切った表情で上司を見つめていた。
「今回の魔獣討伐で、我々は『正しい手順』の重要性を世に示すのだ!」
「あの……部長」 若手査問官が恐る恐る手を挙げた。「でも、レオン様たちは手順なんて無視して、見事に解決されましたが……」
「だからこそだ!」 グレゴリウスが机を叩く。「彼らのやり方は確かに結果は出したが、正式な手続きを踏んでいない! 我々こそが、真の魔獣討伐の模範を示すのだ!」
「……はぁ」
ため息が会議室に響いた。
「まず、魔獣討伐申請書を作成する! 担当はベルナルド!」
「えっ、私ですか?」
眼鏡の査問官が慌てて立ち上がった。
「そうだ! 完璧な申請書を作れ! 書式は第17条3項に従い、全50ページ分だ!」
「ご、五十ページ」
「当然だ! 魔獣の種類、推定戦力、討伐方法、環境への影響評価、事後処理計画……全て網羅するのだ!」
ベルナルドは青ざめた顔で書類の山と格闘を始めた。
三日後、ようやく申請書が完成した。
「よし、次は承認だ!」 グレゴリウスが意気込む。「各部署を回って、判子を集めるぞ!」
「部長、魔獣の目撃情報が……」 偵察担当が報告しようとした。
「後だ! まず手続きが先だ!」
さらに二日後、ようやく全ての承認印が揃った。
「完璧だ! では討伐隊を編成する!」
「部長」 ベテラン査問官が進言した。「実力を考慮して、男性魔術師も加えた方が……」
「何を言っている!」 グレゴリウスが激怒した。「我々は女性上位の原則を守らねばならん! 隊長はもちろん女性査問官だ!」
「でも、今回の隊長候補のシルヴィア様は、戦闘経験が……」
「問題ない! 彼女は書類審査で満点だった!」
こうして、実力を無視した討伐隊が編成された。
討伐当日、王都郊外の森に査問院の大部隊が展開した。
「目標を確認! 小型魔獣、推定Dランク!」
偵察官が報告する。犬ほどの大きさの魔獣が、のんびりと草を食んでいた。
「よし、作戦開始!」 シルヴィア隊長が号令をかけた。「まず包囲陣形を……」
「隊長! 魔獣が動き始めました!」
「慌てるな! 手順通りに……」
その時、魔獣がこちらに気づいた。
「ガオー!」
小さく吠えると、素早く森の奥へ逃げ始めた。
「追え! いや、待て! まず追跡許可申請を……」
「隊長! もう見えません!」
「ええい! 規則違反だが仕方ない! 追跡開始!」
重装備の査問官たちが、必死に魔獣を追いかける。しかし、書類や装備で重くなった体では、素早い魔獣に追いつけるはずもなかった。
一時間後、へとへとになった討伐隊が集合地点に戻ってきた。
「報告します……見失いました」
「くそっ!」 シルヴィアが悔しがる。「もう少しで……」
その時、近くを通りかかった農夫が声をかけた。
「あんたら、何してるんだ?」
「魔獣討伐だ! 邪魔をするな!」
「魔獣? ああ、さっきの小さいやつか」 農夫があっけらかんと言った。「あれなら、うちの息子が追い払ったぞ」
「なんだと」
「石投げたら逃げてった。臆病な奴でな」
査問官たちは絶句した。
その頃、レオンとアルフィは、たまたま近くを通りかかっていた。
「なんだか騒がしいな」
「査問院の魔獣討伐だそうです」 アルフィが情報を確認する。「ああ、失敗したようですね」
「失敗?」
「はい。小型魔獣一匹を、50人がかりで1週間かけて、結局逃がしたそうです」
レオンは苦笑した。
「俺たちなら5分で終わる内容だな」
「ええ。でも、彼らは『正式な手順』にこだわったようです」
二人が話していると、市民たちが集まってきた。
「レオン様! やっぱりあなた様じゃないとダメですね!」
「査問院の連中、書類作ってる間に魔獣に逃げられたんですって!」
「『第17条3項により』とか言ってる間に、ガオーって逃げられたらしいですよ!」
市民たちの笑い声が響く中、一人の子供がレオンに尋ねた。
「ねえ、レオンお兄ちゃん。なんで査問院のおじさんたちは、そんなに書類が好きなの?」
レオンは優しく答えた。
「きっと、それしか知らないからだよ」
「ふーん。でも、魔獣は書類が揃うまで待ってくれないよね?」
子供の純粋な指摘に、周囲の大人たちも苦笑した。
夕方、査問院本部では反省会が開かれていた。
「なぜ失敗した!」 グレゴリウスが怒鳴る。
「手順は完璧だったはずだ!」
「部長……」 ベルナルドが眼鏡を直しながら言った。「もしかして、手順にこだわりすぎたのでは……」
「何を言っている! 手順こそが我々の誇りだ!」
「でも、現実は……」
「現実が間違っているのだ!」
その瞬間、窓の外から市民たちの声が聞こえてきた。
「査問院、また失敗だってよ!」
「レオン様がいれば一瞬なのにな!」
「もう査問院なんていらないんじゃない?」
グレゴリウスの顔が真っ赤になった。
「く、くそ……!」
プライドと現実のギャップに苦しむ査問官たち。彼らの威信回復作戦は、見事に裏目に出たのだった。
その夜、酒場では今日の出来事が肴になっていた。
「聞いたか? 査問院の連中、書類の山に埋もれて魔獣を見失ったんだと!」
「ははは! まるで喜劇だな!」
「いや、悲劇かもしれん。本人たちは大真面目なんだから」
笑い声が夜遅くまで響いていた。
一方、レオンの自宅では、アルフィが今日の出来事を分析していた。
「興味深いですね。彼らは形式に固執するあまり、本質を見失っています」
「まあ、長年そうやってきたんだろうからな」 レオンが肩をすくめる。
「でも、変わらなければ時代に取り残される」
「問題は、彼らがそれに気づいているかどうかです」 アルフィが指摘する。
「気づいていても、変われないんだろう」 レオンが窓の外を見る。「プライドが邪魔をして」
「哀れですね」
「ああ。でも、これが現実だ」
二人は、旧体制の断末魔を静かに見守っていた。
明日もきっと、査問院は何か新しい失敗をするだろう。
そして市民たちは、ますます彼らを見限っていく。
時代の変化は、もう誰にも止められない――。




