第4話「反響と新展開」
実技試験の翌日、俺の執務室のドアが上品にノックされた。
「お話ししたいことがあります。お時間をいただけませんか?」
扉の向こうから聞こえる声は、絹のように滑らかで、しかし拒絶を許さない確固たる意志を秘めていた。ローゼン家——その名前だけで王国の権力者たちが膝を屈める、最高位の名門貴族。
『興味深い展開ですね。彼女の行動には明確な意図があります』
「会うべきだろうか?」
『情報収集の観点からも、拒否する理由はありません。ただし、警戒は必要です』
ギルドの庭園にある東屋で、俺はエリーゼ・ローゼンと向かい合って座っていた。
午後の日差しが石のテーブルに優しく降り注いでいるが、俺の背中は冷たい汗でじっとりと濡れていた。
王国屈指の名門貴族の令嬢が、昨日まで「社会のゴミ」扱いされていた俺に何を話そうというのか? 彼女の一言で俺の運命が決まるかもしれない。
エリーゼは、実技試験の時と同じく、知的で洗練された雰囲気を纏っている。しかし今日は、どこか親しみやすさも感じられた。
『彼女の心拍数は安定しています。敵意はないようです』
「レオン・グレイ」
エリーゼの声は、実習室で聞いたときよりもずっと柔らかい。
「なぜ、あなたは魔術師になったのですか?」
意外な質問だった。
「……理由ですか?」
『あなたの価値観を探っているようです』
確かに、エリーゼの瞳は俺を値踏みするような鋭さがある。
「知識で人の役に立ちたかった」
シンプルな答え。だが本心だ。
「魔術はそのための手段だと思ったんです」
エリーゼの表情がわずかに変わった。
「素晴らしい答えです。では、今の魔術師制度について、どう思われますか?」
今度は、より直接的な質問だった。
『この質問は政治的な意味を持ちます』
しかし、俺は正直に答えることにした。もし彼女が体制派なら、この時点で関係は終わる。
「正直に言えば……間違っていると思います」
エリーゼの瞳が輝いた。まるで、期待していた答えを聞けたかのように。
「どのような点で、間違っていると?」
「性別で能力を判断することの愚かさです。俺が追放された理由は『男性だから』――それ以外に理由はありませんでした。これが正しい制度だとは思えません」
「なるほど」
エリーゼが身を乗り出す。
「では、レオン・グレイ。あなたは現在の制度の『真の問題』が何だか、お分かりですか?」
真の問題? 俺は少し考えてから答えた。
「女性優位システムそのものが問題なのではなく……それを利用して既得権益を守ろうとする人たちが問題なのではないでしょうか」
エリーゼの顔に、明らかな驚きが浮かんだ。
「……驚きました。多くの男性は『女性が悪い』と考えがちですが、あなたは構造的な問題を理解している」
彼女は立ち上がると、庭園の向こうを見つめながら話し始めた。
「この制度は、300年前の『魔導女王エリザベスの大改革』の産物です」
俺は知識として覚えていた。300年前、強大な魔力を持つ女王エリザベスが、当時の男性優位社会を一夜にして転覆させた歴史的事件だ。
「当時は確かに緊急事態でした」
エリーゼの瞳が遠くを見つめる。まるで300年前の惨劇を目の当たりにしているかのように。
「男性貴族が魔術を独占した。王国は滅亡の危機に追い込まれた」
エリーゼの説明に、俺は引き込まれていく。教科書では習わなかった詳細な歴史だった。
「女王エリザベスの改革により、魔術師の地位は女性が優先されることになりました。そして、それは正しい選択だったのです」
「それなら、現在の制度も正しいということになりませんか?」
「いえ」
エリーゼが振り返る。
「でも緊急事態が終わった後も、この制度は続いた」
エリーゼが振り返る。
その瞳に、冷たい火が燈っていた。
「なぜだと思いますか?」
「……それによって得をする人たちがいたから?」
「その通りです」
エリーゼの瞳に、怒りに似た感情が浮かんだ。
「女性優位と言いながら、実際は一部の上層貴族女性だけが得をしている」
俺の胸が締め付けられる。
「一般女性も男性も搾取されている。真の問題は性別ではなく階級なのです」
俺は衝撃を受けた。
確かに、ギルドでも上層部は全て貴族出身の女性たちだった。
一般女性の魔術師たちも、実は俺と同じように不当な扱いを受けているのかもしれない。
「さらに言えば……」
エリーゼの声が震える。
「ギルドが独占する魔術技術の利益は、全て上層部の女性貴族に流れる」
俺は拳を握りしめた。
「これでは社会全体の技術革新も停滞します」
「でも、エリーゼさんはその貴族階級の一員では……」
俺が言いかけた時、エリーゼが苦笑いを浮かべた。
「だからこそ、この問題の深刻さが分かるのです。内部から見えるからこそ、このシステムの腐敗ぶりが手に取るように分かります」
『彼女の分析は的確です』
アルフィの評価も高い。確かに、エリーゼの社会分析は鋭い。
「エリーゼさん」
俺は彼女に向き直った。
「あなたは、なぜそんなことを考えるようになったんですか? 貴族の令嬢なら、現在の制度の恩恵を受ける側のはずですが」
エリーゼの表情が、一瞬暗くなった。
「実は、私にも似た経験があります」
エリーゼの手が震えている。
彼女は石のテーブルに手を置く。その指先が白くなるまで、強く握りしめて。
「5年前のことです」
「私には優秀な男性の教師がいました」
声がかすれた。
「魔術理論の天才で、彼から学んだことが私の全てでした」
『個人的な体験を語り始めました。これは重要な情報です』
「しかし、彼は『男性が女性貴族に魔術を教えるのは不適切』という理由で、教師の地位を剥奪されました」
彼女の声が一瞬詰まった。
何か、まだ言えない事情があるのだろうか。
俺の胸が重くなった。俺と同じような理不尽な処分だ。
「……私は、優秀な男性魔術師が不当に処分される場面を何度も見てきました。そして、実力不足の女性が『女性だから』という理由だけで昇進する姿も」
「中には、明らかに魔術の基礎すら理解していない女性が、『貴族だから』『女性だから』という理由だけで重要なポストに就いているケースもあります」
エリーゼの声に、抑制された怒りが込められている。
「私の地位は本当に実力によるものなのか? 私が評価されているのは、私自身の能力なのか、それとも家柄と性別なのか? そう自問し続けた結果……このシステムは間違っていると確信したのです」
彼女の瞳に、一瞬狂気にも似た執着の光が宿った。
まるで、何かに取り憑かれているかのような。
「絶対に変えてみせる……何を犠牲にしても」
呟きが漏れた。すぐに彼女は平静を取り戻したが、その一瞬の狂気じみた光は俺の記憶に焼き付いた。
俺は、彼女の言葉に深く感動していた。
特権階級にいながら、その特権を疑問視する勇気。そして、自分自身の立場すら客観視できる知性。
「だからこそ、あなたのような存在に希望を感じるのです」
エリーゼが俺の目を真っ直ぐに見つめる。
「真の実力で結果を出せる人。性別や身分に関係なく、純粋な能力で勝負できる人」
「では、どうすればいいと思いますか?」俺は尋ねた。
「必要なのは『能力の多様性』を認める制度設計です」
エリーゼの瞳に、強い意志の光が宿る。
「魔力、技術、知識、人間性――全てを総合的に評価する社会です」
「本当の実力主義ですね」
「そうです。実力で評価されるべきなのは、魔力の量ではなく問題解決能力です」
エリーゼの手が、無意識にペンダントを握りしめた。
家紋が刻まれたそれは、彼女とローゼン家を繋ぐ鎖のようにも見えた。
「私の家族は……理解してくれません。『現状で十分恵まれているのに、なぜ危険を冒すのか』と」
彼女の声に苦渋が滲む。
「特に母は……」
エリーゼの声が震えた。
「『お前は家の誇りよ。その地位を守ることが、ローゼン家の女としての務め』と言い続けています。姉たちも同じ意見です」
『彼女の家族構成に注目してください。母親と姉たち――全員が現体制の受益者です』
アルフィの分析が頭に響く。
俺は、彼女の言葉に深く頷いた。
「情報を活かせるかどうかが真の実力だと思います」
「まさに! それこそが、これからの時代に必要な能力です」
俺たちは、しばらく議論を続けた。
やがて、エリーゼが真剣な表情で俺を見つめた。
「レオン・グレイ。お聞きしたいことがあります」
「何でしょう?」
「一緒に変えませんか、この社会を」
俺の心臓が、一瞬止まったような感覚に襲われた。
だが同時に、彼女の瞳の奥に潜む何かに気づいた。
焦りだろうか? それとも……
「私は改革派貴族のネットワークにアクセスできます。しかし、理論だけでは変革は起こせない。あなたの『結果を出す力』が必要なのです」
『レオン、彼女の感情パターンに異常な振幅を検知しました。強い決意の裏に、何か切迫したものを感じます』
アルフィの警告が頭に響く。
『彼女の提案は真剣です。政治的な計算も含まれていますが、本心からの申し出のようです』
アルフィの分析も、エリーゼの真剣さを裏付けている。
「でも……俺は追放された身です。どんな力になれるでしょうか?」
「それは逆です」
エリーゼが微笑む。
「あなたが追放されたという事実こそが、この制度の矛盾を証明している。そして、あなたの昨日の実技試験は、真の実力者が不当に扱われていることの完璧な証拠になります」
確かに、そう考えると俺の立場は案外悪くないのかもしれない。
「段階的改革が必要です。まずは実績で『新しい価値観』の有効性を証明しましょう」
「具体的には?」
「あなたの能力と私の政治力の相乗効果です。技術革新と制度改革を同時に進める」
エリーゼが身を乗り出す。
「第一段階として、あなたにギルドへの復帰を果たしてもらいます。私の推薦があれば可能です」
「復帰できるのですか?」
「ただし、完全な復帰ではなく、『特別顧問』のような形になるでしょう。既存の序列を脅かさない形での復帰です」
『政治的に巧妙な戦略ですね』
「第二段階では、あなたの能力を使って、今まで解決できなかった技術的課題を次々と解決してもらいます」
「それで実績を積み上げるということですね」
「そうです。そして第三段階で、『実力で評価する』やり方が正しいってことを実証して、みんなに分かってもらう」
俺は、エリーゼの提案を真剣に考えた。
これは、俺がやりたかったことじゃないか? アルフィが言ってた「知識の解放」というのも、同じことだ。
『この選択は重要です』
俺の心の中で、複雑な感情が渦巻いていた。
エリーゼの分析は的確だった。俺一人では、どんなに実力があっても限界がある。社会全体を変えるには、政治的な力と戦略が必要だ。
それに、彼女の「必死さ」が俺の心に響いた。
この異常なまでの情熱は、何か深い理由があるはずだ。俺と同じように、現在の社会に対する怒りや絶望を抱えているのかもしれない。
(なぜこんなに必死なんだ?)
俺の胸に、説明できない不安が広がった。
そして何より、俺は一人でいることに疲れていた。追放の孤独感、誰にも理解されない苦しみ。エリーゼと組めば、少なくともその孤独から解放される。
社会変革への責任感もあった。
俺の能力は、個人的な復讐のためだけに使うべきではない。より多くの人のために、不公正なシステムを変える手助けができるかもしれない。
「……分かりました」
俺は決意を込めて答えた。
「一緒に変えましょう、この社会を」
エリーゼの顔に満面の笑みが浮かんだ。
だがその笑顔は、どこか必死さを含んでいた。まるで、最後の希望に縋るような……
「本当に? 本当に一緒に戦ってくれるの?」
彼女の声が上擦った。普段の冷静さからは想像できない感情の揺れ。
「ありがとうございます。これで、変革への第一歩を踏み出せます」
その瞬間、彼女の瞳に一瞬、狂気じみた決意が宿った。
「もう後戻りはできない。家族が何と言おうと、私は最後まで戦い抜く。たとえ、ローゼン家の全員を敵に回すことになっても……」
小さな呟きだったが、その言葉には鋼のような意志が込められていた。
彼女は手を差し出してきた。俺はその手を握り返す。
彼女の手は、氷のように冷たかった。
そして、その握力は異常に強い。まるで、俺を離すまいとするかのように。
俺たちが握手を交わした瞬間、風が吹いて薔薇の花びらが舞った。
「これで後戻りはできない」
エリーゼの呟きが、不吉な予言のように聞こえた。
だが、俺たちはまだ知らなかった。ギルド上層部が既に、俺たちを脅威として認識し始めていることを。
* * *
その頃、王立魔術師ギルドの最上階では、緊急会議が開かれていた。
「あの男は危険だ」
ヴィクトリア・クローディアの声が響く。
「そして、エリーゼ・ローゼンと手を組んだとなれば……」
「対策を講じる必要がある」
「このまま放置すれば、我々の立場が危うくなる」
会議室に、不穏な空気が流れていた。
俺とエリーゼの協力関係は、思った以上に早く、強力な敵の注意を引いていたのだ。