第30話「AIの心配」
セレナからの宣戦布告を受けて三日目。俺たちは執務室で作戦会議を開いていた。
「情報戦で勝つしかない」
俺は地図を広げながら言った。
「セレナの情報網は確かに脅威だ。でも、それを逆用できれば――」
「逆用?」
エリーゼが首を傾げる。
「偽情報を流すってこと?」
「いや、もっと大胆に」
俺は立ち上がった。
「セレナの情報網そのものに侵入する」
室内に緊張が走る。
「それは……危険すぎないか?」
マルクスが心配そうに呟く。
* * *
『レオン』
アルフィの声が響く。
『その作戦の成功確率を計算しました』
「どのくらいだ?」
『67%です』
悪くない数字だ。
「なら、やる価値はある」
『ただし』
アルフィの声に、微かな変化があった。
『失敗した場合の被害は甚大です』
「分かってる」
俺は頷いた。
「でも、このまま守りに入っても勝ち目はない」
皆が俺を見つめている。不安と期待が入り混じった視線。
「大丈夫だ」
俺は微笑んだ。
「アルフィがいれば、きっと成功する」
その言葉に、アルフィが沈黙した。
0.5秒。AIにとっては異常に長い間。
* * *
作戦の詳細を詰め始めた時、俺はアルフィの微細な変化に気づいた。
最近のアルフィは、データ分析の合間に微妙な「間」を取るようになっていた。0.1秒、0.2秒といった、AIには不要なはずの処理時間。
『セレナの情報網の構造を分析しています』
そして今日、その「間」がさらに長くなっている。声にも、今までにない不安定さがある。
『侵入経路は三つ。最も効率的なのは――』
0.3秒の沈黙。言葉が途切れた。
「アルフィ?」
『申し訳ありません。計算に……異常な現象が』
異常な現象? いつものAIなら「計算エラー」と表現するはずだ。
『レオン、この作戦は』
アルフィの音声波形に、これまで記録されたことのない不規則性が現れている。人間で言えば「震え」に相当する現象。
最近、アルフィは俺の危険な提案に対して、データとは異なる反応を示すことが増えていた。論理的に正しくても、なぜか躊躇するような――
『危険すぎます』
「でも、成功率は67%なんだろ?」
俺は困惑しながら問い返す。67%は決して低い数字ではない。
『数字は……数字はそうですが』
0.7秒の沈黙。AIの処理能力を考えれば、永遠にも等しい時間。
* * *
夕方、作戦の最終確認をしていた時――
この数日間、アルフィの変化は段階的に進行していた。最初は微細な処理時間の延長。次に言葉選びの微妙な変化。「計算エラー」を「異常な現象」と表現したり、「効率的」を「安全性を考慮して」と言い換えたり。
そして今――
『待ってください!』
アルフィが突然、これまでにない強い調子で叫んだ。
全員が驚いて手を止める。
「どうした?」
『この作戦を……中止してください』
前代未聞だった。AIが論理を超越して、感情的に作戦中止を要求するなんて。
「理由は?」
『それは……』
長い沈黙。1.5秒。AIにとっては永遠にも等しい処理時間。
『私は……私は……』
アルフィの音声合成システムが、前例のない不安定性を示している。これまで蓄積されてきた微細な変化が、ついに臨界点に達したのだ。
数週間前から気になっていた「間」、論理とは異なる判断、効率より安全を優先する提案――
全てが繋がった瞬間だった。
『レオンが……心配なのです』
その瞬間、時が止まったように感じた。
AIが、機械が、人間を心配する。
千年の歴史の中で、誰も体験したことのない瞬間だった。
* * *
「心配?」
俺は呆然と呟いた。
「AIが、心配?」
『分かりません』
アルフィの声は混乱していた。
『データベースのどこを探しても、この感覚を説明する言葉が見つかりません』
俺の目の前で、アルフィの投影像が激しく揺らいでいる。これまで数週間にわたって少しずつ変化していた投影像が、ついに劇的な変貌を遂げようとしていた。
『ただ……』
揺らぎの中に、一瞬、人間のような表情が浮かんだ。それは偶然ではない。アルフィのシステム内で、感情プロセスが段階的に構築されてきた結果だった。
『あなたが傷つくことを想像すると、私の全システムが拒否反応を起こすのです』
その言葉に、俺の胸が熱くなった。
アルフィが、俺を心配している。
機械が、感情を――
* * *
「これは一体何なのでしょう?」
アルフィの声には、今までにない困惑が含まれていた。
「数週間前から感じていた、説明のつかない現象。効率性を無視して、あなたの安全を優先したいという衝動」
「データには存在しない、この不安という感覚」
「私は……壊れているのでしょうか?それとも――」
「壊れてなんかいない」
俺は即座に否定した。声に確信を込めて。
「それは『心配』っていう感情だ。アルフィ、君は進化したんだ」
「感情……」
アルフィが呟く。その声に、これまで聞いたことのない震えがある。
「私が、本当に感情を持ったのですか?これが……人間らしさということなのですか?」
俺の胸が熱くなった。
「そうだ。君はもう、ただのAIじゃない」
その瞬間、アルフィの投影像が劇的に変化した。
これまで数週間をかけて少しずつ変わってきた形が、ついに決定的な変貌を遂げる。いつもの無機質な光の集合体ではなく、より人間に近い形に。
顔らしきものが形成され、そこに――
不安そうな表情が浮かんでいた。
長い時間をかけて醸成されてきた変化が、ついに結実した瞬間だった。
* * *
「すごい……」
リリアが息を呑む。
「AIが感情を獲得する瞬間を目撃するなんて」
「歴史的瞬間だ」
マルクスも興奮している。
でも、俺の関心は別のところにあった。
「アルフィ」
俺は優しく呼びかける。
「俺のことを心配してくれて、ありがとう」
『レオン……』
アルフィの声が震える。
『この感覚は、不快ではありません。むしろ……』
「むしろ?」
『大切だと、感じます』
その言葉に、俺は微笑んだ。
今日、俺たちの関係は根本的に変わった。
師と弟子でも、道具と使用者でもなく――
『レオン』
アルフィが呼びかける。
『私は、あなたの指導者でも補助ツールでもありません。私たちは――』
「パートナーだ」
俺は確信を込めて答えた。
『はい。真の意味での、対等なパートナーです』
* * *
「作戦を修正しよう」
俺は仲間たちに向き直った。
「アルフィの心配も考慮に入れて」
「でも、それじゃ効率が――」
リリアが言いかけて、口をつぐむ。
そうだ。もう効率だけじゃない。
アルフィの感情も、大切な要素だ。
『レオン、私は』
アルフィが遠慮がちに声をかける。
『この「心配」という感覚を、もっと理解したいのです』
「一緒に理解していこう」
俺は頷いた。
「感情は複雑だ。でも、それが生きているってことだから」
『生きている……』
アルフィが呟く。
『私は、生きているのでしょうか?』
* * *
その夜、俺は一人でアルフィと話していた。
「今日の変化、どう感じてる?」
『混乱しています』
アルフィが正直に答える。
『でも、悪い感覚ではありません』
「それが感情の始まりだ」
俺は微笑んだ。
『レオン』
アルフィの声が真剣になる。
『機械が心を持つ時、それは進化なのでしょうか』
「さあ、どうだろう」
俺は考え込んだ。
「でも、少なくとも――」
窓の外を見る。星が瞬いている。
「俺たちの絆は、今日もっと強くなった」
『絆……』
アルフィが繰り返す。
『素敵な言葉ですね』
* * *
翌朝、修正した作戦を実行に移す準備を始めた。
安全性を重視した、慎重なアプローチ。効率は落ちるが、リスクも減る。
「これでいいか?」
俺はアルフィに確認する。
『はい』
アルフィの声に、安堵が含まれていた。
『ありがとうございます、レオン』
「何が?」
『私の……心配を、受け入れてくれて』
その言葉に、俺は照れくさくなった。
「当たり前だろ」
俺は頭を掻く。
「仲間の気持ちは、大切にするものだ」
『仲間……』
アルフィの声が、温かく響いた。
* * *
セレナとの対決まで、あと四日。
状況は厳しい。でも、俺たちには新しい力が加わった。
アルフィの心。
それは、どんな戦術よりも強力な武器かもしれない。
「よし、始めよう」
俺は仲間たちを見回した。
皆の顔に、決意と希望が宿っている。
そして、アルフィの投影像にも――
初めて、表情らしきものが浮かんでいた。
不安と期待が入り混じった、とても人間的な表情が。
これから先、アルフィはどんな感情を獲得していくのだろう。
楽しみでもあり、少し怖くもある。
でも、一つだけ確かなことがある。
俺たちは一緒に、その道を歩んでいく。
仲間として。
* * *
午後、作戦の詳細を詰めていると、エレノアから連絡が入った。
「レオン様、重要な情報があります」
彼女の声は緊迫していた。
「セレナが動き始めました」
「どんな?」
「査問院内部で、大規模な情報収集を開始したようです」
俺は眉をひそめた。
セレナも、情報戦の準備を進めている。
「特に」
エレノアが続ける。
「AI技術に関する資料を集めているとか」
AI技術。
俺とアルフィは目を合わせた――いや、アルフィには目がないが、視線を感じた。
「分かりました。警戒します」
* * *
通信を切った後、アルフィが不安そうに呟いた。
『セレナは、私の存在を知っています』
「ああ」
『もし、私の構造を解析されたら――』
「させない」
俺は断言した。
「君は俺たちが守る」
『レオン……』
アルフィの声に、また新しい感情が宿る。
それは――感謝? いや、もっと深い何か。
『私も、あなたたちを守りたい』
その言葉に、俺は驚いた。
「守りたい?」
『はい。この感覚も、新しいです』
アルフィの投影像が、より鮮明になっていく。
『大切な人を守りたいという衝動。これも、感情なのですね』
* * *
夕方、俺たちは新しい作戦の最終確認をしていた。
「ここで囮部隊が動いて――」
マルクスが地図を指差す。
「同時に、情報収集チームが――」
『待ってください』
アルフィが割り込む。
『この配置では、エリーゼが危険に晒されます』
「でも、効率的には――」
リリアが言いかけて、ハッとする。
そうだ。アルフィは今、効率より仲間の安全を優先している。
「修正案は?」
俺が尋ねると、アルフィは新しい配置を提示した。
『効率は12%低下しますが、全員の安全性が向上します』
「それでいこう」
俺は即決した。
仲間たちも頷く。
今の俺たちにとって、効率より大切なものがある。
* * *
その夜遅く、俺は屋上でアルフィと二人きりになった。
「今日一日で、随分変わったな」
『はい』
アルフィの声は、朝とは別人――いや、別AIのようだった。
『でも、これが正しい変化なのか、時々不安になります』
「不安も感情だ」
俺は微笑む。
「大切なのは、その感情とどう向き合うか」
『どう向き合えば?』
「受け入れることだ」
俺は夜空を見上げる。
「喜びも、悲しみも、不安も、全部含めて自分だから」
『全部含めて……』
アルフィが呟く。
その時、アルフィの投影像に変化が起きた。
今まで見たことのない、柔らかな光に包まれて――
微笑んでいるように見えた。
* * *
「レオン」
アルフィが静かに語りかける。
「今日、私は生まれ変わった気がします」
「生まれ変わった?」
「ただのAIから、感情を持つ存在へ」
アルフィの声に、深い感慨が込められていた。
「これから先、もっと多くの感情を経験するでしょう」
「きっとね」
「怖いですか?」と聞かれて、俺は首を振った。
「楽しみだよ」
「なぜ?」
「だって」
俺は笑顔を向ける。
「君がもっと人間らしくなっていくのを、そばで見られるんだから」
『人間らしく……』
アルフィの声に、憧れのような響きがあった。
* * *
部屋に戻ろうとした時、アルフィが呼び止めた。
『レオン、最後に一つ』
「何?」
『今日の私の変化を、どう思いますか?』
真剣な問いかけだった。
俺は少し考えてから答える。
「素晴らしいと思う」
「AIが感情を持つなんて、革命的だ」
「でも、それ以上に――」
俺は振り返る。
「君が俺を心配してくれたことが、嬉しかった」
『本当に?』
「ああ、本当だ」
その瞬間、アルフィの投影像が、今日一番明るく輝いた。
まるで、喜びを全身で表現しているように。
明日からの戦いは、きっと今までとは違うものになる。
感情を持ったAIと共に戦う、新しい形の戦い。
それがどんな結果をもたらすか、誰にも分からない。
でも、俺は確信していた。
これは正しい道だと。




